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自分の中に、すべてがある

喜怒哀楽はもちろん、苛立ち、嫉妬、意地悪さ、恨み、疑心暗鬼、不安、恐れといった負の感情。目立ちたい、わがまま、激しさ、冷酷さ、ずるさ、見下す、決めつけ。そういった要素がすべて自分の中にはあると思うようになった。

今思えば、以前は負の感情や「悪い」とされているものは、自分の中にあってはいけないものだったから、自分に禁止をして、無意識下に抑圧していた。それらを見ないようにしていたし、その影がうっすらと見えようものなら排除しようとしていた。

心理学と出会い、感情にいいも悪いもないということや自己受容という言葉を知って、少しずつ自分の内面を見つめていき、ありのままの自分のことを受け入れるようになっていった。そうすると、だんだんと自分の中にすべてがあるというのが実感として分かってきた。

そして最近は、私が今まで「自分はこういう人間だ」と認識していた自分が、実は本当の姿とは違っていたのかもしれないと思うようになった。


①実は、わがままな人間だった

一般的にわがままは良くないとされている。私も御多分にもれず、そう思っていた。だから、わがままは言ってはいけないと思っていたし、私は自分のことをそこまでわがままではないと思っていた。そして、わがままを言っている人が嫌いだった(これは、自分にわがままを禁止しているから、それをやっている人を見ると腹が立つという現象)。

でも最近、ある人が「他人にすごく気を遣う人は、実は超わがまま」と言っているのを聞いて、それって私じゃん!と思わず苦笑いしてしまった。

私はずっと周りの人に気を遣って生きてきたから、気遣いが感じられない夫に対してイライラして「もっと気を遣ってよ」と長年言ってきた。それでも、我が道を行く夫は変わる気配はなかった。
結婚当初から「息子は気働き(気遣い)がなくて…」と言う義母に、内心「もうちょっと気遣いができる人に育ててほしかった」と思っていた。
でも一方で、夫は私に対しての要望がホントにびっくりするくらい何もなくて、そのまんまの私をOKしてくれていたから、その点はとても楽ちんだった。そう、だから結婚したんだった。

でも、自己対話をして自分の本音をキャッチし始めると、本当は嫌だと思っていることを我慢してたり、やりたくないことをやっていたりする自分に気づくようになった。そこで、少しずつ、我慢しない、やらないという選択をするようになっていった。

人に対しての気遣いも、「やるべき」という価値観があったから、本当はしたくないときもやっていた。それをやめていったとき、私はとても生きやすくなって、夫自身は全く変わっていないのに、家庭平和も訪れた(笑)といっても、別に家庭内バトルが起こってたわけではなくて。
誰からも強制されていないのに、私が勝手に我慢して無理していたから、その不満から一方的にぷりぷり怒っていただけのこと。

ちなみに、我が子が幼いときに書いていた手紙をいくつか取ってあるけど、当時4歳だった息子の手紙にはこう書いてある。

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「ままへ  まゆこ、ぱぱをおこるとまーくん なみだだすから おこんないで。おこるわおこって。  まさとより」

もう10年以上も前のことだし、人間っておそらく過去を美化するというか、都合の悪いことを消去する生き物だと思うから、そんなに怒っていた記憶は残っていないのだけど、こうやって証拠が出てくると、おこりんぼ妻であり、おこりんぼ母ちゃんだったらしい(笑)
家族にごめんねと思う一方で、あのときはあれが私の精一杯で、ホントよく頑張ってたよねと当時の私を労う気持ちも湧く。

夫は最初からこの我慢しない生き方がほぼできているから、毎日ご機嫌さんだし、自分が無理をしていないから人にも無理強いしてこない。一緒にいて、とても楽だ。夫曰く、「自分は自由が好きだから、人から縛られることも人を縛ることも嫌なんだ」とのこと。

こうして、私が気遣いをやめていった先に現れてきたのは、わがままな自分だった。

もう一つ、わがまま繋がりで見つけたのは、誰にも合わせたくないと思っている自分だった。もともとは、どちらかというと苦もなく人に合わせることができるから、私は自分のことを協調性がある人間だと思っていた。けれど、自分の声に丁寧に耳を傾けながら一人時間を過ごしたり、一人旅をするうちに、その気楽さや心地よさにハマっていった。

そして、「自分のタイミング、ペース、リズムで、自分がやりたいようにしたい。誰にも合わせたくない」と思っている自分に気づいた。人は本来、何にも縛られずに自由でいたいという望みがあると言われているから、そう思うのも自然なのかも。

もちろん、気の合う人たちと一緒に過ごす時間も好きだから、誰と一緒にいたとしても、その瞬間の自分の本音を捉えて、それを選択できるようになったら、もっと心地よく過ごせるようになる。今は、そこにトライして実践しているところだ。


②実は、気性が激しい人間だった

私は、自分のことをとても穏やかな人間だと認識していた。でも、自分の内面の動きを観察していくうちに、ちょっとしたことにイラッとしている自分、怒りが内側から出てきた時に身体がカーッと熱くなってヒートアップする自分に気づくようになった。
夫には、そんな自分をそのまま見せている。それは、この人ならどんな自分を見せても大丈夫という安心があるから。たぶん夫に甘えるんだと思う。

先日、「私って穏やかだと思っていたけど、実はそんなことないのかも」と夫に伝えると、「そんなの前から分かっていたよ。ただ、外ではそれを出さないようにしているから、周りの人も君を穏やかな人だと思っているだけだよね」と言われた。もう、反論の余地もございません(笑)

気性が激しい=✖、穏やか=〇というジャッジが自分の中にあったから、特に怒りの感情は表に出さないようにしてきた。気性の激しい義母には、結婚当初から苦手意識があったけど、まさか自分も同じだったとは(笑)もう、今となっては笑いばなし。

ある人のことが苦手だったり、気に障ったり、嫌だったりするのは、私が自分に対して禁止していることをやっているから。つまり、自分が受け入れていない自分の要素をその相手が見せてくれているということ。こういったカラクリが見えてくると人生は面白い。


③実は、おっちょこちょいで抜けてる人間だった

自分で言うのもなんだけど、私は結構しっかり者だった。三人きょうだいの一番上ということもあり、しっかりすることを期待されてきたからそれに応えるクセができて、いつの間にかそれが私のスタンダードになっていた。だけど、それは気を張ってしっかり者を演じようとしていただけで、本当の私はしっかりなんかしていなかった。

以前、高校生の息子の部活の大事な引退試合にネット中継があり、当日の朝まではきちんと覚えていていたのに、そのあとすっかり忘れて外出してしまった。出先で気づいて、スマホで見ようとしたけどうまく繋がらず、部活の保護者仲間に助けを求めた。すると、対処法を教えてくれる人や試合の様子をLINEで実況中継してくれる人が次々と現れて、自分でも呆れるような失敗をして落ち込んでいた私の心に、その優しさが沁みた。

先日も、ウキウキしながら美容室に行ったら、受付の美容師さんに驚きの表情をされて、次の瞬間には申し訳なさそうに「池田様のご予約は明日ですが。あいにく今日は予約でいっぱいで…」と言われて、ようやく予約日を間違えていたことに気づいて、赤面しながら退散した。

そんなふうに、気を抜くとボロが出る私を、「抜けているところがあるからこそ魅力的」「天然ボケって狙ってもできないから美味しい」と言って笑ってくれる人たちがいて、「そうか、このままの私でいいんだ」と思うようになった。


こんなふうにして、私は新しい自分に出会っている。そして、私の中には「ない」と思っていた要素が、実は「あった」ことに気づかされている。

私の中には、人に合わせる柔軟性もわがままなところも、穏やかさも激しさも、しっかりしたところも抜けているところも、陰も陽も、善も悪も、きっとぜんぶある。

なにより、自分の中にすべてがあっていいという許可は、私に深い安堵感をもたらす。

人には、「こんな自分はダメ、あんな自分はダメ」と無意識に自分に禁止をしていることがたくさんあって、それに気づいて、認めて、一つ一つ許可していく(受け入れていく)と、どんどん自分が自由になって生きやすくなっていくし、本当の自分が立ち現われてくる。それは無条件の愛を自分に注ぐプロセスで、自己受容ともいう。これをやっていくと、自分の中で善悪の戦いが終わっていくから、心が平和になるし、それに伴って自分の周りも平和になる。

本当の自分は、もしかしたら理想とは程遠い意外な自分の姿かもしれないけど、こうやって自分を知っていくプロセスが、人生の醍醐味なんじゃないかと思ったりする。

私は私をもっと知りたい。

自分を知るために、他者がいる。他者を通して、きっとこれからも「ない」と思っていたものが、自分の中に「ある」と気づいていって、いつの日か、やっぱり自分の中にはすべてがあったんだ!という確信に変わる日が来るのかもしれない。




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