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正岡子規『はて知らずの記』#25 八月十一日 大須郷→本荘

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

夜まで歩き、宿が見つからない。


十一日、塩越村を経。
象潟は昔の姿にあらず。
塩越の松は、いかがしたりけん、
いたづらに過ぎて、善くも究めず。
金浦平沢を後にして、
徒歩に堪へねば、
しばし、路傍の社殿を借りて眠る。
覚めて、又、行くに、
今は苦しさに息をきらして、
木陰のみ恋はし。

喘ぎ喘ぎ 撫し子の上に 倒れけり

丘陵の上、
野薔薇、多く生ひて、
赤き実を生ず。
道行く人、そを取りて食ふ。
偶々、花の咲くを見るに、
花弁、紅にして、燃ゆるが如し。
処々に、牛群を放つ。
夕風、稍々涼しき頃より、
勇を鼓して、ひた急ぎに急ぎしも、
終に夜に入りて、
林を過ぎ、山を越ゆ。
路のほとりに鳴く虫の声々、
旅人を慰めんとて
曲を尽すも、
耳には入らで、
旅衣の袖に
露のはしる音、
ひとり、身に入みたり。

消えもせで かなしき秋の 蛍かな

稍々、二更近き頃、
本庄に着けば、
町の入口、青楼、軒をならべて
幾百の顔色、ありたけの媚を呈したるも、
飢渇と疲労になやみて
余念なき我には、
唯、臭骸のゐならびたる心地して、
格子をのぞく若人の胸の内、
ひたすらに、うとまし。

骸骨と われには見えて 秋の風

くたびれし足、やうやうに引きずりて、
とある旅店に宿を請ふに、
空室なし、とて断りぬ。
三軒四軒、尋ねありくに
皆同じ。
ありたけの宿屋を行きて
終に、宿るべき処もなし。
蓋し、此夜は
当地に、何がし党の親睦会ありて
四方の田舎人、つどひ来れるなり。
古雪川を渡りて、石脇に行き、
ここかしこと宿を請ふに、
一人の客、面倒なればにや、
尽く許さず。
詮方なく、本庄に帰り、
警察署を煩はして、
むさくろしき一軒の旅籠屋に上り、
飯など、たうべし時は、
三更にも近かりなん。


塩越村(→秋田県由利郡象潟町)

象潟

金浦

平沢(→仁賀保駅あたりか)

所謂野薔薇は玫瑰即ちハマナスであらう。(石井露月『蜩を聴きつゝ:露月文集』文川堂書房 1935)

本庄(→秋田県由利本荘市)

古雪川(→子吉川か)

石脇

再び、『本荘案内』と『由利案内』によれば、当時の本荘町内の旅館数を数えると一六軒ある。その内、子規が通った沿道に位置していたのは肴町の石川旅館、中町の小園館、小松屋旅館、加藤旅館、川崎屋、大町の今能屋(㊇旅館)、能登屋の七軒である。多分、これらの旅館のいずれか数軒から最初断られたのであろう。三年前の明治二十三年に竣工した新しい木橋の由利橋を渡って石脇の宿屋をたずねたものの、一人客の故にまた断られてしまう。石脇には越後屋など二軒の宿屋があったが、そのいずれかであろう。再び子吉川を越えて本荘側に引き返し、肴町にあった警察署を訪ね、むさくるしい旅館(大町㊇旅館。第17図参照。ごみ箱に屋号㊇が見える)をやっと紹介してもらうのである。夕食にありつけたのは「三更にも近かり」と語っているので、午前零時頃であろう。(本荘市編『本荘市史 通史編Ⅲ』本荘市 1997)

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