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正岡子規『はて知らずの記』#20 八月六日 作並温泉→楯岡

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

奥羽山脈越え。歩く歩く歩く。夜まで。


六日 晴。

見し夢の 名残も涼し 檐の端に
 雲吹きおこる 明方の山

山、深うして、
一歩は一歩より閑かに、
雲、近うして、
一目は一目より涼しげなり。
蝉の声、いつしか耳に遠く、
一鳥、朝日を負ふて
山より山に、啼きうつる、
樵夫の歌、かすかに、其奥に聞えたり。
さすがの広瀬川、細り細りて、
今は、盃をも浮かべつべき有様なるに、
処々に、白き滝の、緑樹を漏れたるも、
いとをかし。

雲にぬれて 関山越せば 袖涼し

九十九折なる谷道、
固より、人の住む家も見えず、
往来の商人だに、稀なるに、
十許りの女の童、
何処に行かんとてか、
はた、家に帰らんとてか、
寂しげに、麓の方へ辿り行くありけり。
と見れば、賤しき衣を着けたるが上に、
細き袴を穿ちたる其さま、
恰も、木曽人の袴の如し。
いつの代の名残にはありけん、
ひたすらに、いとほしく覚えて

撫し子や ものなつかしき 昔ぶり

仰ぎて望みたる山々、
次第に、我足の下に爪立ちて、
頭上、僅かに、一塊の緑を残す。
山、険に、
谷、深うして、
道をつくるべき処もなし。
攀ぢて、其もとに到れば、
山根に、一条の隧道を穿つ。
これを過ぐれば、
即ち、羽前の国なり。
隧道に入れば、
三伏、猶、冷かにして、
陸羽を吹き通す風、
腋の下に通ひて
汗は将に氷らんとし、
岩を透す水の雫は、
絶えず壁を滴りて、
襟首をちぢむること、度々なり。

隧道の はるかに人の 影すずし

出口に、一軒の茶屋あり。
絶壁に憑りて、構へたり。
蝿、むらがり飛んでは、
此一つ家に集まる。
幾千万といふ数を知らず。
うるさけれども、めづらし。
山、稍下りて、
車馬、群がるところ、
家、一つあり。
ここにて、昼餉などしたためて、
午熱を避く。

午飯の 腹を風吹く ひるねかな

幾曲り曲りて、
道は、松杉の中に入る。
涼しき響の、どことなく耳を襲ふに、
何やらん、と横にはいれば、
不動尊、立てり。
其うしろに廻りて
松が根に腰をやすむれば、
水晶の簾なせる滝は、
数刃の下に懸りて、
緑を湛へたる深潭の中に落つ。
襟を開き、汗を拭ふて、
覚えず、時をうつしぬ。

とくとくの 谷間の清水 あつめきて
 いはほをくだく 滝の白玉

涼しさを 砕けてちるか 滝の玉

滝壺や 風ふるひこむ 散り松葉

山、稍開きて、
路の辺の畑には、莨をつくり、
処々に、二三の茅屋など見受けらる。

ほろほろと 谷にこぼるる いちごかな

山を出て はじめて高し 雲の峰

山里や 秋を隣に 麦をこぐ

路、二筋に分るる処、
即ち、天童、楯岡の追分なり。
茶屋に腰かけて、
行く手の案内など聞く。
道を右にとりて、
観音寺白水の諸村を過ぐ。
これより路傍、
湯殿山の三字を刻みたる碑、多し。
萬善寺の村はづれにやあらん、
一筋の川、流れたり。
白河といふ。
河原つづきに、草生ひたる原、
遙かに広がりて、小山に接す。
此河原に、
六七十羽の鴉、下り居て
羽を夕日に晒せば、
西の方、東根村あたりより、
労れたる翼、ゆるゆるつかひながら
森づたひに低く飛び来る
一むれむれの鴉は、
皆、ここに来り、
大勢の中に打ちまじりて、憩ふが如し。
立ちならびたる傍の鴉、
見かへりて、何をか語るは、
今日の獲物を誇るにやあらん。
小石、ふみすべらしながら、
たどたどと、水の際まで歩みて
水を飲むは、
喉を濡ほして、
昼の熱さを、洗ひさるなるべし。
しばし、ながむる内
二百羽にも余りつらん、と覚しく、
翼、うち触れて、
川原おもても、狭く見ゆる程に、
始めより居たるは、
少しづつ川を離れて、
次第に、草むらの中に退き、
はては、五羽六羽と
思ひ思ひに飛びむれて、
向ふの山もとをめぐるは、
夕靄がくれ、
おのが塒に、いそぎ行くめり。
折ふし、
車引きて帰る賤の女に聞けば、
ここは鴉の寄り処にして
毎晩、斯の如し、とぞ。
橋あり。
烏鵲橋と名つけたり。
鴉に見とれて、覚えず
貴重なる夕刻を費しぬ。

東根を過ぎて、
羽州街道に出でし頃は、
はや、夕栄、山に収まりて
星光、燦然たり。

夕雲に ちらりと涼し 一つ星

楯岡に一泊す。
いかめしき旅店ながら、
鉄砲風呂の火の上に
自在を懸けて、
大なる鑵子をつるしたるさまなど、
鄙びて、おもしろし。


関山

一条の隧道(→関山隧道)

涼風わが背に吹きて下り道更に熱き事を知らず。下より上り来る馬車など皆喘ぎながら木陰に休むめり。(初出)

「出口に一軒の茶屋あり」とあるのは、工事中人夫頭をしていた武内に、恩賞の意味をふくめて通行人の見張役をかね、茶屋を営むことを許したので、その妻が松明や駄菓子を売っていた茶屋のことである。(東根市史編集委員会編『東根市史編集資料 第二号 植松雅慶文書他』東根市 1977、「八 横尾寿三郎手記」)

不動尊(不明)

水晶の簾なせる滝(→関山大滝か)

天童、楯岡の追分(不明。下のあたりか)

観音寺(→山形県東根市観音寺)

「寒山落木巻二」の夏の部「納涼」と題するところに/「関山越旅中…木のもとにふんどし洗ふ涼み哉」とあるのは、現在県道のそば、観音寺の野川川原で洗った褌の乾くまで休んだのであろうか。(東根市史編集委員会編『東根市史編集資料 第二号 植松雅慶文書他』東根市 1977、「八 横尾寿三郎手記」)

白水(不明)

萬善寺(不明)

白河(不明)

この白河は白水川らしい。(東根市史編集委員会編『東根市史編集資料 第二号 植松雅慶文書他』東根市 1977、「八 横尾寿三郎手記」)

東根村(→山形県東根市)

烏鵲橋(不明。黒鳥観音の傍の橋か)

楯岡(→山形県村山市)

この旅亭の屋号は大方「江戸屋」であろう、「いかめしき旅店ながら」云々と書いているから余程大きい宿であったらしい。(工藤吉治編『東根温泉六十年史』東根温泉開湯六十年祭実行委員会 1969)

子規が泊まった〝いかめしき旅店〟が笠原か江戸屋かは判然としない。結城氏は「いかめしき」という形容詞から江戸屋ではないかと書いているが、明治二十六年当時、並んで営業していた両館が、片や本陣、片や脇本陣の後代の姿だとすれば、むしろいかめしいのは本陣だった笠原の方ではなかったのだろうか。(村山市史編さん委員会編さん『村山市史 芸術文化編』村山市 1986)

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