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『はて知らずの記』の旅 #4 宮城県・笠島(実方中将の墓)

(正岡子規の『はて知らずの記』を頼りに、東北地方を巡っています。)

サシモのさねかた

 七月二七日、飯坂温泉を発った子規は、桑折駅から汽車に乗った。
 その日に宿をとる仙台に直行することもできたはずだが、手前の岩沼駅で下車している。
 歌枕の「武隈の松」を見るためだ。
 ところが、

心地あしく、午餉さえ得たうべねば、武隈の松もかなたと許り聞きて、行かず。

『はて知らずの記』

 武隈の松は「二木(ふたき)の松」として知られる。「根は土際より二木に分かれて」と芭蕉が書いているとおり、現在も二本の幹が、びよーん・びよーんと斜めに伸びて、車道の上に懸かっている。
「かなたと許り聞きて」とあるが、実際には、それほど遠くない。駅から徒歩数分の、けっこうな街中にある。
 子規が訊ねた人が悪かったのか、体の調子がよっぽど悪かったのか……。

唯、實方中将の墓所ばかりは弔はで止みなんも本意なければ、地図を按じて、町はづれを左に曲り、ひたすらに笠島へとぞ志しける。

同上

 と云って、これも歌枕の「笠島」に向かう。
「武隈の松」より「笠島」の方がはるかに遠いので、何ともチグハグな印象を受ける。

 笠島に墓がある「實方中将」とは誰か?
 調べると、これは藤原実方(さねかた)という平安時代の役人で、百人一首に出てくる人だ。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

「さしも・さしも」のリズムに確かに聞き覚えがある。「燃ゆる思ひ」とあるから、これはラヴ・レターなのだろう。
 実方は逸話の多い人で、光源氏のモデルとも云われる色男だったようだが、その主たるイメージは〝悲劇の歌人〟であるらしい。
 子規も次のように書いている。

中将は一條天皇の御時の歌人なり。ある時、御前にて、行成卿の冠を打ち落ししより、逆鱗に触れ、それとなく奥羽の歌枕、見て来よ、と勅を蒙り、処々の名所を探りて、此処にかかり給ひし時、社頭なれば、下馬あるべきよし、土人の申ししに、扨は何の御社にや、と問ひ給ふ。土人、しかじかの旨答へしかば、そは淫祠なり、馬下るべきにも非ず、とて、阪を上り給ひしに、如何はしたまひけん、馬より落ちて、奥州の辺土に、あへなく身を終り給ふ、とぞ聞えし。

同上

 つまり実方は天皇の前で行成(ゆきなり)という人の冠をはたき落としたので天皇が怒り、「歌枕を見てこい」と東北地方に飛ばされた。言われた通り歌枕の地を巡っていたある時、とある神社の前を通りかかり、地元民と「不敬だから馬を下りろ」「下りない」の口論になり、神罰がくだったのか、落馬して負傷して死んでしまった。京の都を再び見ることのないまま――
 九九八年の出来事とされる。
 笠島には、その落馬事件が起きた神社があり、実方の埋葬地がある。
 一一八六年、そこを西行法師が訪ねて、歌を詠んだ。
 一六八九年、芭蕉が来ようとしたが見つけられず、「笠島は いずこ五月の ぬかり道」と無念の句を詠んだ。
 一八九三年、子規が訪れて、『はて知らずの記』に書いた。
 そして二〇二四年、自分が向かうことになった。

そは淫祠なり

 県道三九号線を自転車で北上した。
 左手には、杉と竹からなる低い山が、だらだらと続いている。
 右手には、苗が植えられたばかりの水田が、空の光を鏡のように反射している。
 上空には、仙台空港を根拠地にしているらしいプロペラ機が、蜂のように音をたてて飛び回っている。
 空が広い。
 何も無い。
 こんな処に人が訪ねるような名所があるのだろうか? と疑問に思ったとしても不思議はない。
 子規は親切な地元の警察官に助けられたようだが、芭蕉をはじめ笠島を目指した人は、さぞや心細い思いをしたことだろう。

 そろそろ脚が疲れてきた頃、標識に「愛島」という地名が出てくるようになった。期待していた「笠島」ではなかった。「愛島」は「めでしま」と読むらしい。
「無問題(もうまんたい)」という名の中華料理屋を過ぎた。
「蟹供養の寺」と書かれた看板を見たが、蟹供養とは何だろう?
 前方の竹林が濃くなった。
 左手に、東北新幹線と思われる高架がトンネルに突き刺さっていた。
 急な登り坂になった。
 椅子から腰を浮かして、立ち漕ぎをした。
 緩くカーブした先に、「道祖神社」と縦に書かれた標識を見た。
 目的の笠島道祖神社(佐倍乃(さえの)神社とも云う)は、小山の上にあった。
 よく読むと、サラリとではあるが、子規も「岡の上」と書いていた。

野径四、五町を過ぎ、岡の上、杉暗く生ひこめたる中に、一古社あり。名に高き、笠島の道祖社なり。京都六条道祖神の女の商人に通じて、終に、ここに身まかりたりとかや。口碑、固より、定かならず。
 われは唯 旅すずしかれと 祈るなり

同上

 実方は「そは淫祠なり」と云って馬を下りなかった。
「淫祠」とは何か?
 落馬のエピソードは『源平盛衰記』に基づくようだ(登巻第七 笠置道祖神の事)。それには、
《陰相を造りて神前に懸け荘(かざ)り》
 とあった。
 ははーん、と思った。
 島根県の八重垣神社を思い出した。
 そこは、〝18禁〟の神社では? と思われるほど、境内の至る処に、男のシンボルを模した木の彫刻が、ソッと置かれていた。何の説明も無かった。親子で来ていて、「おかーさん、これなーに?」と小さい児に訊かれたらどうするのか、と思った。
 あれの女版か。ならば、それらしきモノが見つかるに違いない。 
 そんな期待をして、朱色の鳥居の下を通った。

 素朴な神社だった。
 神楽殿と一体になったような門があり、拝殿があった。
 しかし、それらしきモノは見当たらなかった。
 本殿の裏にも回り込み、フカフカの杉の葉を踏んだりもしたが、何も見つからなかった。
 神社は一六〇二年に野火で消失した、と案内板にあったから、その時に何もかも灰になってしまったのかもしれない。

笠島道祖神社の鳥居

 戻った鳥居の先には、アスファルトの道を挟んで、石段が下に伸びていた。その先は、踏み跡らしきものが、竹林の中に消えていた。
 自分は横の車道から入ったが、昔の参道はこれだったのだろうか? と不思議に思った。

竹林に消える荒れた道

タケノコとススキ

 再びサドルにまたがり、山を下った。
 耳もとで風がびゅんびゅん鳴った。
 墓の入口は、下りきってすぐの田園の中にあった。
「中将藤原実方朝臣の墓」と書かれた意外に大きな看板が出ていた。

墓所への入口

 竹と杉に挟まれた参道らしき道を進んだ。左右の両側は農家の敷地なのだろうか。砂利が撒かれた細道は、緩やかにのぼって、林の蔭に入った。
 そこが、墓所になっていた。
 墓所と云っても、木の柵で囲われていなければ、気づかないだろう。
 構造は「土饅頭」とされるが、これでは盛り上がりがあるのかどうかさえ怪しい。
 柵が無ければ、平気でその上を踏んでいそうである。
 小石がいくつか積み上げてあったが、これは最近置かれたものだろうし、大雨が降れば容易に流されてしまうだろう。
 これが千年という時間のスケールか、と思った。

藤原実方の墓。右下の柵内

竹藪の中に、柵もて廻らしたる一坪許りの地あれど、石碑の残缺だに見えず。唯一本の筍、誤つて柵の中に生ひ出でたるが、丈高く空を突きたるも、中々に心ろある様なり。

同上

 子規の云う筍は生えていなかったが、墓所らしい雰囲気はあった。
 立地には納得した。
 ところで、あの柵内の緑の苔を剥がして下を掘り返せば、実方の白い骨が出てくるのだろうか?

 傍に、西行の句碑があった。

朽もせぬ その名はかりを ととめ置て かれのの薄 かたみにそみる

 西行は、筍ではなく、薄(ススキ)があったと云っている。

其側に、西行の歌を刻みたる碑あり。枯野の薄かたみにぞ見る、詠みしは、ここなりとぞ。ひたすらに哀れに覚えければ、我、行脚の行く末を祈りて
 旅衣 ひとへに我を 護りたまへ

『はて知らずの記』

 薄は、子規も見ている。

塚の入口のかなたに、囲はれたる薄あり。やうやう一尺許りに生ひたるものから、かたみの芒とは、これなるべし。

同上

 現在も、「かたみのすすき」なる表示が、背の低い細い草に埋もれてある。
 青々と茂っているが、これはススキなのだろうか?
 それにしても至近の位置に、小さな錆びたブランコがあるのは、どういう訳だろう。

 車道に戻ると、先ほどまで居た道祖神社の小山が見えた。
 現場から近すぎず、遠すぎず。
 なるほど、事故の犠牲者は、これくらいの距離の処に埋葬されたかもしれないな、と思われた。
 ここにも新幹線の高架が来ていた。仙台を発ったのだろう緑の車体が、低い姿勢で滑るように近づいて来て、行き去った。

道の方が離れた

 子規はこの後、増田駅から再び汽車に乗って仙台に移動している。駅は、現在では名取に名前を変えている。
 自分も、駅を目指して東に進んだ。
 道祖神社や実方の墓からは、名取駅の方が断然近かった。
 子規は、笠島へ行くだけなら、増田駅から往復すればよかった。わざわざ岩沼駅から歩く必要はなかった。
 けれど、芭蕉の到達できなかった笠島を見ることができたのだから、武隈の松を見逃したのと合わせて、一勝一敗といったところか。

 ところで、ペダルを踏みながら、疑問に思っていたことがある。
 実方は、なぜあのような辺鄙な場所に居たのか?
 歌枕の「阿古耶の松」を探しに行った帰りだったとされるが、あのように何も無い処に、神社だけがポツンとあったのだろうか。
 その謎は、駅近くの名取市歴史民俗資料館に立ち寄ったことで解けた気がした。
 芭蕉が歩いたのは「奥州街道」、子規が使ったのは奥州街道沿いの「日本鉄道」だが、それぞれ江戸時代、明治時代に造られたものである。
 実方の生きた時代に、それらは無かった。
 在ったのは、「東山道」と呼ばれる道だった。
 その古道は、現在からみれば、中山道と奥州街道を群馬県・栃木県でドッキングさせたような〝変〟な道だが、当時は近江と陸奥・出羽を結ぶ幹線道路だった。
 笠島道祖神社は、東山道のすぐ傍にあった。
 いや、東山道があったから、そこに道祖神社が出来たと云うべきか。
 だから、そこを陸奥守の実方が通ることに、何の不思議もなかった。
 竹林の中に見えていた荒れた道は、そういうことだった。
 神社が辺鄙な場所にあったのではなく、道の方が神社から離れて行ったのだった。


本日の旅行代

〇円
※自転車で遠出した。

(次回に続く)

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