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正岡子規『はて知らずの記』#30 八月十六日 大曲→湯田

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

山へ入り、温泉場の台所で寝る。


十六日、六郷より
岩手への新道を辿る。
あやしき伏家に
やうやう、午餉したためて
山を登ること一里余、
樵夫歌、馬の嘶き、
遙かの麓になりて、に達す。
神宮寺大曲りを中にして
一望の平野、眼の下にあり。
山腹に沿ふて行くに
四方、
山、高く、
谷、深くして、
一軒の藁屋だに見えず。
処々に、
数百の牛のむれをちらして
二人三人の牛飼を見るは、
夕日も傾くに
いづくに帰るらん、と覚束なし。
路傍、覆盆子、林を成す。
赤き実は、珠を連ねたらんやうなり。
急ぎ、山を下るに
茂樹、天を掩ふて
鳥声、聞かず。
下り下りて
はるかの山もとに、
二三の茅屋を認む。
そを力にいそげども、
曲りに曲りし山路は、
たやすく、そこに出づべくもあらず。

蜩や 夕日の里は 見えながら

日、くれはてて
麓村に下る。
宵月をたよりに
心細くも、猶
一二里の道を辿りて、
とある小村に出でぬ。
ここは、湯田といふ温泉場なりけり。
宿りをこへば、
家は普請に係り
客は二階に満ちて、
宿し参らすべき処なし、とことわる。
強いて請ふに、
台所の片隅に
炉をかかへて
畳二枚許り敷き、
わが一夜の旅枕とは定まりぬ。
建具、ととのはねば
鼾声、三尺の外は
温泉に通う人音、常に絶えず。

白露に 家四五軒の 小村かな

山の温泉や 裸の上の 天の河

肌寒み 寝ぬよすがらや 温泉の臭ひ

秋もはや、うそ寒き夜の山風は、
障子なき窓を吹き透して
我枕を襲ひ、
薄蒲団の縫目、深く潜みて
人を窺ひたる蚤の群は、
一時に飛び出でて、我夢を破る。
草臥の足を踏みのばして
眠り、未だ成らぬに。


⇒夏目漱石(朝、大曲の旅館から発信。⑬口絵)(全集第22巻)

愚生財政困難のため真成之行脚と出掛候処炎天熱地の間にむし殺されんづ勢にて大に辟易し此頃ハ別仕立の人車追い通しに御座候 風流ハ足のいたきもの紳士ハ尻のいたきものに御座候(全集第18巻、明治二十六年〔八月十六日〕夏目金之助様)

六郷(→秋田県仙北郡美郷町)

明治廿六年の夏から秋へかけて奥羽行脚を試みた時に、酒田から北に向つて海岸を一直線に八郎湖迄来た。それから引きかへして、秋田から横手へと志した。其途中で大曲で一泊して六郷を通り過ぎた時に、道の左傍に平和街道へ出る近道が出来たといふ事が棒杭に書てあつた。近道が出来たのならば横手へ廻る必要もないから、此近道を行つて見やうと思ふて、左へ這入て行つたところが、昔からの街道で無いのだから昼飯を食ふ処も無いのには閉口した。路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所がだんだん山が近くなる程村も淋しくなる、心細い様ではあるが又なつかしい心持もした。山路にかかつて来ると路は思ひの外によい路で、あまり林などは無いから麓村などを見下して晴れ晴れとしてよかつた。併し人の通らぬ処と見えて、旅人にも会はねば木樵にも遇はぬ。もとより茶店が一軒あるわけでもない。(正岡子規「くだもの」『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975)

正岡子規については紙数の都合上触れることができないが、この黒森峠を越えたのは、子規二十五歳の明治二十六年八月十六日である。(…)岩手への新道を通ってと記しているが、これは六郷町長だった畠山久左衛門が明治十六年私財二千余円を投じて、古道を改修しながら黒森峠まで開いた道である。この新道によって馬で荷を運べるようになったというが、畠山久左衛門は生祠畠久神社に生存中より祭られたという。(門屋光昭、高橋一男編『和賀川流域誌』門屋光昭 1980)

頂(→黒森山か)

神宮寺(眺めるだけ)

大曲り(眺めるだけ)

十六日のこと「くだもの」⑫文中で回想。(全集第22巻)

頂上近く登つたと思ふ時分に向<ふ>を見ると、向ふは皆自分の居る処よりも遙かに高い山がめぐつてをる。自分の居る山と向ふの山との谷を見ると、何町あるかもわからぬと思ふ程下へ深く見える。其大きな谷あいには森もなく、畑もなく、家もなく、唯綺麗な谷ありであつた。それから山の背に添ふて曲りくねつた路を歩むともなく歩でゐると、遙の谷底に極平たい地面があつて、其処に沢山点を打つた様なものが見える。何ともわからぬので不思議に耐へなかつた。だんだん歩いてゐる内に、路が下つてゐたと見え、曲り角に来た時にふと下を見下すと、さきに点を打つた様に見えたのは牛であるといふ事がわかる迄に近づいてゐた。愈々不思議になつた。牛は四五十頭もゐるであらうと思はれたが、人も家も少しも見えぬのである。それから又暫く歩いてゐると、路傍の荊棘の中でがさがさといふ音がしたので、余は驚いた。見ると牛であつた。頭の上の方の崖でもがさがさといふ、其処にも牛がゐるのである。向ふの方が又がさがさいふので牛かと思ふて見ると今度は人であつた。始て牛飼の居る事がわかつた。崖の下を見ると牛の群がつてをる例の平地はすぐ目の前に迄近づいて来て居つたのに驚いた。余の位地は非常に下つて来たのである。其処等の叢にも路にも幾つともなく牛が群れて居るので余は少し当惑したが、幸に牛の方で逃げてくれるので通行には邪魔にならなかつた。それから又同じ様な山路を二三町も行た頃であつたと思ふ、突然左り側の崖の上に木いちごの林を見つけ出したのである。あるもあるも四五間の間は透間もなきいちごの茂りで、しかも猿が馬場で見た様な瘠いちごではなかつた。嬉しさはいふ迄もないので、餓鬼の様に食ふた。食ふても食ふても尽きる事ではない。時々後ろの方から牛が襲ふて来やしまひかと恐れて後振り向いて見ては又一散に食ひ入つた。もとより厭く事を知らぬ余であるけれども、日の暮れかかつたのに驚いていちご林を見棄てた。大急ぎに山を下り乍ら、遙かの木の間を見下すと、麓の村に夕日の残つてをるのが絵の如く見えた。あそこい<ら>迄はまだ中々遠い事であらうと思はれて心細かつた。(正岡子規「くだもの」『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975)

赤き実は、珠を連ねたらんやうなり。駄菓子売る処だになき此山中造化の賜は腸にこたへてうましうましと独りつぶやきぬ。(初出)

下前分校は先生一人生徒六名の学校だ。子規が訪れた翌明治二十七年の開校である。なだらかな山を背にひっそりと草に埋もれている。子供達の健康で人なつこい顔に別れを告げて、でこぼこの山道を車にゆられて登る。道の傍に自然石の碑が立っていた。/蜩や夕陽の里は見えながら 子規/小高い丘になっていて里の茅屋根や赤や緑のトタン屋根が遠く望まれる。子規の紀行「はてしらずの記」の文にぴったりの場所である。(門屋光昭、高橋一男編『和賀川流域誌』門屋光昭 1980)

湯田(→岩手県和賀郡西和賀町)

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