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正岡子規『はて知らずの記』#23 八月九日 古口→清川→酒田

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

舟をおりて、酒田まで歩く。


九日、早起、舟に上る。
暁霧濛々、
夜、未だ明けず。

すむ人の ありしとしられて 山の上に
 朝霧ふかく 残るともし火

古口より下、一二里の間、
山、険にして、
水、急なり。
雲霧繚繞して、
翠色、模糊たるのあはひあはひより
落つる幾条の小瀑、
隠現出没、
其数を知らず。
而して、小舟
駛する事、矢の如く、
一瞬一景、
備さに、其変態を極む。
曽て、舟して木曽川を下る、
潜かに、以て、最奇景となす。
然れども、
之を最上に比するに、
終に此
幽邃峻奥の趣に乏しきなり。

立ちこめて 尾上もわかぬ 暁の
 霧より落つる 白糸の滝

朝霧や 四十八滝 下り船

四十八滝は総名なり。
淵に、河童淵ありて、
河童は空しく風と消え、
滝に、尻滝ありて、
岩石、猶、二つの豊凸を為す。
其外、むつかしき名も多かるべし。

一山川に臨んで
録樹鬱茂、
翠色、滴らんと欲す。
水に沿ふて、鳥居あり。
石階、木の間に隠れて
鳥の声、幽かなり。
これを仙人堂といふ。
前の淵を仙人沢といふ。
甲なる人、
咳き一つして、
こを仙人沢といふ事、
昔し、久米の仙人、
空中を飛行して、ここに来りし時、
衣を浣う処女一人、川中に立てるが
脛の色、白くして、
たとへんに、ものなし。
仙人は、一目見るより、
さて、うつくしき脛よ、
と思ひしのみにて
通力、全く絶え、
忽ち、此水中に落ちたり、
と語るに、
乙なる人、聴きて、
膝の進むを覚へず、曰く、
度々、此様の話あり。
其女といふも、実は、
神の使にして
必ず「みんたん」(此地、私窩子の称)
の類には非るなり。
恐るべし、恐るべし、と。
甲、又、語を継ぎて、
仙人、其後、
彼女と婚して、
と、言ひもあへず、
乙、傍より妨げて、いふ。
彼、亦、終に契りを結びしや。
果して、然らば、
通力を失ふ、亦、何かあらん、と。
一座、哄然、
舟中の一興なり。

漸くにして、清川に達す。
舟を捨てて、陸に上る。
河辺、
杉木立、深うして
良材に富む。
此処、
戊辰戦争の故蹟なり、と聞きて

蜩の 二十五年も 昔かな

道々、茶屋に憩ふて
茶を乞ふ。
茶も湯も無し、といふ。
風俗の質素なること、知るべし。
歩む事、五里、
再び、最上川を渡り。
限りなき葦原の中、道辿りて、
酒田に達す。
名物は、
婦女の肌理細かなる処にあり、といふ。
夜、散歩して、市街を見る。
紅燈翠酒、客を招くの家、
数十戸、檐をならぶ。
毬燈、高く見ゆる処に
したひ行けば、
翠松館といふ。
松林の間に、いくつとなく
ささやかなる小屋を掛けて、
納涼の処とす。
此辺の家、
古風の高燈籠を点ず。


古口

白糸の滝

河童淵(→?)

尻滝(→?)

仙人堂

清川

清川より酒田に到る旧道は、右岸の山寺、砂越を過ぎたが、子規はそれに拠らず左岸の清川街道を行つて、新堀より最上川を酒田に渡つた。/清川街道の狩川、南野を過ぎたことは/桃くふや羽黒の山を前にして/といふ句のあるによつて明かである。(山口誓子『子規諸文』創元社 1946)

最上川を渡る、とあるのは今の新堀といふ処の渡しで、まだ現在の両羽橋といふ大橋の架らぬ時分の渡船であつた。両羽橋は新堀から三十町許り下流にある。限りなき蘆原尚ほ其面影を止めて、道の左右ただ茫々、已に酒田の入口にありながら、町は何処ぞと疑はしめる程である。が、果知らずの記当時に比べれば、順次田畑に墾かれたらしく、蘆の中に飛び飛び麦の萌えた畑や、黍殻を抜きとつた畝の跡などが見える。(河東碧梧桐『三千里』第2巻 春陽堂書店 1937、十月二十三日の段)

酒田

翠松館(→現存しないか)

紅燈緑酒云々は恐らく船場町辺の遊廓であつたであらう。翠松館は翠松亭のことで、俗に弁当屋といふ。山王の松林を背ろにした旗亭で、現存してをる。尚ほ子規子は宿を三浦屋といふのにとつたらしい。これはこの地での第一の旅館である。(河東碧梧桐『三千里』第2巻 春陽堂書店 1937、十月二十三日の段)

翠松亭は現在は下台町の今井医院になつているところで、その裏が、当時は「松の山」と呼ばれていたが、今は光丘神社の境内になつている。三浦屋は、現在伝馬町の合同タクシー会社のあるところで、表は西向きで、総二階造りの大きな旅館であつた。(柴田悳也『酒田来遊文人考 明治篇』みちのく豆本の会 1958)

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