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正岡子規『はて知らずの記』#10 七月二十七日 飯坂温泉→仙台

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

移動を再開。名所に寄り道して仙台へ。


二十七日、曇天、
朝風、猶、冷かなり。
をとつひより、心地、例ならねば、
終に、医王寺にも行かず。
人力車にて、桑折に出づ。
途中、葛の松原を過ぐ。

世の中の 人にはくずの 松原と
 いはるる身こそ うれしかりけれ

と、古歌に詠みし処なり。
故ありて、ここの掛茶屋に
一時間許り、休らひたり。
野面より吹き来る風、寒うして、
病躯、堪え難きに、
余りに顔の色、あしかりしかば、
茶屋の婆々殿に、いたはられなどす。
強いて、病に非ず、とあらがへば、
側に在りし嫁のほほ笑みて、
都の人は、色の白きに、
我等は、土地の百姓のみ見慣れたれば、
斯くは、煩ひ給へるにや、と覚ゆるも
よしなしや、など取りなしたる
むくつけき田舎なまりも、中々に興あり。

人くずの 身は死にもせで 夏寒し

桑折より汽車に乗る。
伊達の大木戸は夢の間に過ぎて、
岩沼に下る。
心地あしく、午餉さへ得たうべねば、
武隈の松も、かなたと許り聞きて、行かず。
唯、実方中将の墓所ばかりは
弔はで止みなんも本意なければ、
地図を按じて、町はづれを左に曲り、
ひたすらに、笠島へ、とぞ志しける。
巡査一人、草鞋にて後より追付かれたり。
中将の墓は、と尋ぬれば、
我に跟きて来よ、といふ。
道々、いたはられながら、
珍らしき話など聞けば、
病苦も忘れ、一里余の道、はかどりて、
其笠島の仮住居に、しばし憩ふ。
地図を開きて、
道程、細かに教へらる。
いと親切の人なり。

野径、四五町を過ぎ、
岡の上、杉、暗く生ひこめたる中に、
一古社あり。
名に高き、笠島の道祖社なり。
京都六条道祖神の女の商人に通じて、
終に、ここに身まかりたりとかや。
口碑、固より定かならず。

われは唯 旅すずしかれと 祈るなり

杉の中、道、横に曲りて、
薬師堂を下れば、
実方の中将、馬より落ち給ひし処、
大方ここらなるべし。
中将は、一條天皇の御時の歌人なり。
ある時、御前にて、
行成卿の冠を打ち落ししより、
逆鱗に触れ、それとなく
奥羽の歌枕、見て来よ、
と勅を蒙り、
処々の名所を探りて、
此処にかかり給ひし時、
社頭なれば、下馬あるべきよし、
土人の申ししに、
扨は、何の御社にや、
と問ひ給ふ。
土人、しかじかの旨、答へしかば、
そは淫祠なり、馬下るべきにも非ず、
とて、阪を上り給ひしに、
如何はしたまひけん、
馬より落ちて、奥州の辺土に、
あへなく身を終り給ふ、とぞ聞えし。

田畦、数町を隔てて、
塩手村の山陰に、墓所あり。
村の童に、しるべせられて行けば、
竹藪の中に、柵もて廻らしたる
一坪許りの地あれど、
石碑の残缺だに見えず。
唯、一本の筍、
誤つて柵の中に生ひ出でたるが
丈高く空を突きたるも、
中々に心ろある様なり。
其側に、西行の歌を刻みたる碑あり。
枯野の薄かたみにぞ見る、
と詠みしは、ここなりとぞ。
ひたすらに哀れに覚えければ、
我、行脚の行く末を祈りて

旅衣 ひとへに我を 護りたまへ

塚の入口のかなたに、囲はれたる薄あり。
やうやう一尺許りに生ひたるものから、
かたみの芒とは、これなるべし。

増田迄一里の道を、
覚束なくも辿りつきて、
汽車、仙台に入る。
尺八、月琴、胡弓など合奏して
戸毎に銭を乞ふ者多し。
郡山よりこなたに、往々観る所なり。


医王寺(→瑠璃光山医王寺。子規は訪れず)

葛の松原(→松原寺)

今も松原といふ名は残りたれど松林なども見えず。昔は如何ありけん。(初出)

その当時には、旧睦合村にも飯坂から桑折に到る新道がすでに通じており、東北本線も開通して間もなかった。松原地内のこの新道筋には茶屋も三軒程あり、弁当を肩にわらじがけの湯治客が行きかい、これらの茶屋で一服する客も多かったものと思われる。(…)その三軒あった茶屋のうち、真ん中にあった茶屋を中の茶屋と村人はよび、現存する鈴木商店の前身であるが、前日飯坂温泉に泊まった子規は、人力車に乗って桑折に向う途中に、この中の茶屋で一時間程休んだ。その頃店番をしていたおナヲ婆さんも、よもや、そんな有名な人とは気がつかなかったのではなかろうか。(…)東北本線の開通は明治二十年(一八八七年)であり、桑折の駅は開通と同時に開業したのであるが、伊達駅(当時は長岡駅といった)は同二十八年の開業なので、飯坂からなら近くの伊達駅に向かったであろうが、子規が訪れた頃は止むを得ず桑折の駅に向う以外になかったのである。/なおこの「中の茶屋」は、おナヲ婆様が亡くなってからはおハル婆様に引継がれ、昭和二十年代まで酒、たばこ、郵便切手、駄菓子などを売っていたのであり、その後も縁者によって細々続けられていたが、この建物は昭和五十一年(一九七六)まであったが解体され、その跡におハル婆さんの孫にあたる現鈴木商店の店主は、子規がここで詠んだ句を自然石に刻み、記念の碑を建立した。今でもなお地域の人々はこの店を、「茶屋」、或いは「中の茶屋」と呼んでいる(八木沼与三私家版『覚英物語補遺』による)。(桑折町史編纂委員会編『桑折町史 各論編 民俗・旧町村沿革』3 桑折町史出版委員会 1989)

桑折(→桑折駅)

伊達の大木戸

岩沼(→岩沼駅)

武隈の松(子規は訪れず)

座ながらに見渡す青田はても無く渺々たり。(初出)

笠島の道祖社(→佐倍乃神社(正一位笠島道祖神社))

堂宇破るるにまかせて繕はねどもあやしき物を奉ること今まに絶えず
(初出)

⇒古島一雄(「はて知らずの記」には記していない、笠島道祖神へ無数の木彫陽物奉納のことを、絵入り狂歌入りで報告)(全集第22巻)

小生ニ三日来感熱劇変之為心地例ならず今日ハ紀行を認むる事もいやに候 其代り無類之珍聞御報申上候/小生古跡探究之為病苦を侵してわざわざ笠島といふ処にまハり候処山村寂々老杉鬱葱之間一祠あり道祖神と申候 此社境内可なりに大なれども堂宇荒廃風雨の破るるに任し候へども凡社内にこれ程多くの宝物を蔵する所ハ他に比類有之間敷扨其宝物は屋中に蔵するに非ず堂中堂外に陳々相依るものに御座候 其形は
 甲(図アリ)
 乙(大小図アリ)
の如く甲図ハ巧なるものにして乙図ハ拙なるもの也大サハ二尺乃至三寸位迄に候 尽く桐にてつくりたれバ尿道の通し居る処によくよく御目をつけられて御覧可被下候 色ハ白多けれども時として全身赤き者半身赤きもの抔有之候 而して此宝物は村民の奉納する者にて累々として積む者也 外格子抔にはさみあり候 社門の矢大臣も手に宝物を按し居候 其小ナル者一箇是非貴兄への御土産に持帰り度為尋候へども小なる者に限り余り拙劣故見合せ申候 当地巡査の話す所によれバ近年ハ余程減少せし由の趣に候 其願ひの筋ハ小生相心得ず候かうもあらふか/何といふ願かしらねど/道祖神どうぞ/じん虚にならぬ/やうにと(…)灯台もと暗しの例への如く點水先生も此宮御承知なくバ御伝言被下度候
(全集第18巻、明治二十六年七月二十七日古嶋一雄宛)

実方中将の墓所(→藤原実方朝臣の墓)

増田(→名取駅)

仙台(→仙台駅)

国分町針久旅館に投宿。(全集第22巻)

数日滞在体力を養はんとなり。(初出)


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