『水庭』の話


最近読んでいたのは三島麻亜子さんの『水庭』という歌集で、文語だしむずかしい植物の漢字とか、わかんない言葉が多くてちょっとつかれてしまった。普段読まないタイプです。でも、二周目で急にはいってきた歌が多くて、こういうのは、言葉に反映された作者の身体性に、徐々に馴染んでくる過程としておもしろくて、それも歌を読む楽しさだと思う。

キッチンに粥を炊きつつ書く便り集めし切手をときをり使ふ/三島麻亜子

お粥を炊いていて、そのあいだに手紙を書く。ふと訪れた待ちの時間を埋めるのが、手紙を書く、という行為なのが、とても穏やかな時間がながれているような気がする。お粥なのもなんだか気の抜けていていい。後半も、切手を集めたりはしているけれど、コレクターみたいな拘りはなくて、たぶん「まぁいっか」って使ってしまう。そうやって自分で自分を許しているときの、なんとなく幸せでゆたかな感じが前半と響きあっていると思う。
ちなみに、「ときをり」については前に書いたことがあるので、ついでに貼っておきます。

朝まだきファックスは鈍き音をたて斎場までの地図を吐き出す/同

これは前にツイートでもすこし触れました。好きな歌。
以下
「当然送り手がいるはずなんだけど、ファックスが主語になっていることでふいに自然と出てきたような印象があって、しかもそれが斎場までの地図であること、なんだかむこうの世界からきた感じがしてくる。」
そうですね。
三島さんの歌は、“向こうの世界”と繋がろうとする意志が見えて、それが馴染みの薄い固有名詞や文語の使用を選ばせているのだとも思う。この歌のすぐあとには

ゆめうつつ分かちがたきよ昼闌けて割りし玉子に双手を汚す/同

この歌があるんですが、ゆめとうつつの間に立って揺れながら詠んでいるわけですね。三島さんにとっての“向こう”は必ずしも死後とは限らないのですが、この連作では死後と考えていいと思います。「玉子」を割るのも、なんか死のイメージがあるし、それによって汚されたうつつの我の手は、危うい感じがする。また、「双手」っていうのも、ふたつにわかれているわけだから、なんか「ゆめうつつ」の両方に腕を浸しているような感じがあった。

最後に

月白の空ゆく鳥の生計さへ受難者めきて冬のはじまる/同

「生計」は「たつき」とルビがあります。僕はこの歌が集中で一番好きでした。
でもこれを語る言葉が出てこなくて、のせるだけにしておきます。
だれか語ってくれたら嬉しいです。

とりあえず今日はつかれたのでここまで。


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