くろたん一首評(2021/2/23)

牧場の木陰にポニーつながれて時おり縄はゆるりと動く/大森千里『光るグリッド』

ポニーの歌なんだけど、縄の歌だ。普通はどうにかポニーの動きを描写しようとするんじゃないだろうか。そこをこの歌の場合は「時おり縄はゆるりと動く」と縄に注目して見せた。縄の動きを見せることで、その先につながれているものの動きを想像で読者に補わせるやり方が非常にうまいと思う。どっかの映画監督が、風を撮るために地面の木漏れ日を映すよう指示したみたいな話があった気がするが(超うろ覚え)そんなことを思い出す。

もうひとつ注目したいのは「時おり」という副詞の選択だ。歌を支えているのはこの「時おり」ではないかと思えてならない。読んだとき、ゆったりとした時間の流れを感じるのは、もちろん「ゆるり」というオノマトペの効果などもあるだろうが、「時おり」が頻度を表す副詞であり、事態が起こらない時間(縄が動いていない状態)をも含んでいるからではないだろうか。一度縄が動いただけでなく、ふたたび止まって、しばらくしてまた動いた、という比較的長い観察を経なければ「時おり」という副詞は出てこない。僕はこの歌で、ポニーがごろんと寝転んでいる姿までありありと浮かべることができる。動物園や牧場にいる動物って、けっこうだらけていて動くのは餌を食うときくらいだったりする。動いてもすぐ木陰に戻ってごろんとなる。その感じがこの歌ではよく出ていると思う。詠まれたものはポニーと縄であると同時に、そこにある時の流れでもある。

ところで、頻度を表す副詞で「時おり」とほぼ同じ頻度を示すものに「ときどき」がある。そういうわけで、この歌の「時おり」を勝手に「ときどき」に変えて考えてみたのだが、やはりそれでは歌の良さは半減してしまうように思った。たったそれだけの違いで、変わってしまうのは何だろうか。たまたまこの疑問に合致する論文があったので読んでみる(「頻度を表す副詞の性質 -トキドキとトキオリ-」八尾由子)。まず、「時おり」はやや文語的で「ときどき」は口語的といった違いはあるものの、両者の差異は微々たるもので「時おり」はほとんどの場合「ときどき」と代替可能らしい。また「ときどき」のほうが使える範囲が広い。これでは一見「時おり」の存在意義が無いように見えるのだが、「時おり」でしか表せないニュアンスというのがあるらしく、それは当該論文では以下のように指摘されている。

(中略)トキオリを用いることによって、それが初めから意図され予定されていた計画的な行為でなく、動作主体の気の向いたときあるいは機会があった場合に行うという非意図的、偶然的なニュアンスが生まれる。
「頻度を表す副詞の性質 -トキドキとトキオリ-」八尾由子https://ci.nii.ac.jp/naid/120002310474

「時おり」には「非意図的、偶然的」というニュアンスが含まれているらしい。このことは、意図的な行為に「時おり」は使われないという点から確認することができる。例えば料理番組などで「ときどき混ぜるようにしてください」などの発言があるが、この「ときどき」を「時おり」にするとかなり不自然だ。それは「混ぜる」が意図的な行為だからであろう。また、「時おり」が地震の揺れや雷、風などの自然現象と親和性が高い表現であることも、「時おり」に「非意図的、偶然的」なニュアンスがあることを示しているだろう(これらのことは論文内で八尾氏がより詳しく検証している)。

ポニーの動きはいうなれば自然現象にちかく、観察者にとって実に気まぐれなものだ。なんの前触れもなく「ふと」動き始める。その「ふと」した感じは、「非意図的、偶然的」なニュアンスのある「時おり」だからこそ表現しえるのではないだろうか。また、論文によれば「時おり」は「ときどき」よりも多少頻度が低く感じられるようだ。それについては以下のように説明されている。

話し手にとって偶然性、意外性が感じられる事態とは、頻度の高低から言えば低い頻度で生起するものであろう。高頻度で起こる事態 と偶然性、意外性とは矛盾するはずである。冒頭で述べたようにトキオリがトキドキと類義語として扱われていながら 「トキドキに比べて低い頻度を表す印象を与える」ことは、話し手が当該事態を意外で偶然性を持ったものとしてとらえ、差し出すことと関連があるのではなかろうか。

これに従えば、「ときどき」よりも「時おり」のほうが、現象が「起きていない」時間帯が長く感じられるということである。掲出歌において、僕は「ゆったりとした時間の流れ」を感じると書いたが、それは「時おり」が、ポニーがただごろんと寝転んでいるだけの時間のほうを、動いている時間よりも長く感じさせているからだと考えられる。

以上の通り、「時おり」という副詞の選択は非常に適切だったと思われるのだが、時おり/ときどきの話は僕が後付けで勝手に気にしてしまっただけなので、一首評としては蛇足だったかもしれない。副詞の選択一つで歌の表情が変わるという体験は誰しもするだろうし、それを言語化してみるのも無駄ではなかったと思いたい。

今回の掲出歌が掲載された『光るグリッド』の詳細は以下より。

https://seijisya.com/book/seijisha-1213/

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