『水庭』の話②

月白の空ゆく鳥の生計さへ受難者めきて冬のはじまる/三島麻亜子

前回の記事(末尾にリンクあり)で諦めてしまったこの歌について、あらためて考えてみました。 

まずは、音に良さがあるような気がします。
とくに個人的に気持ちがいいのは
「月白」→「生計(たつき)」の「つ」の繰り返し、それから
「生計」→「めきて」の「き」の繰り返し。この音の連鎖。
「つ」はつめたい、に通ずるし、音自体もどこか冷たくて鋭い印象がある。「き」もなんとなく金属音ぽくて、きんきんとかきりきりとか、こちらもやはりひんやりして鋭い気がする。読んでみると、音同士の距離もすごくバランスがとれている気がします。前半でどんどん空気が張りつめてくる。音の面から、冬空の感じが伝わってくる。

「月白」は月が出る直前に空が白んでくることだそう。月が出てはいない、もう少しで出るぎりぎり。ここでも、やはり空気が張りつめていく。そこを鳥が飛んでゆく。

鳥は「鳥目」という言葉があるように、夜は基本的に活動できない。月が出る直前の時刻を飛ぶ鳥からは、寝床へいくのか、渡りに向かうのかはわからないけど、どこか慌てて発っていくような印象を受ける。空の遠くにいても見える鳥というのは、ある程度でかいような気がしていて、首の長い鷺の仲間を思い浮かべた。急ぐような様子と、鷺の痩せ細った体は(それがもともとの体型とはいえ)「生計」の厳しさを物語るようにも思う。そしてそれが「受難者」めいて見えた。

「受難者」ですが、ここはやはりキリスト教的なニュアンスが含まれていると思います。あまり詳しくないですが、キリスト教における受難はイエスが処刑を受けたりすることを指していて、またイエスはそれを最後の晩餐で事前に予見してもいた。いわばある意味受けるべくして、運命づけられた「難」だったように思う。となると、「受難者」はなんとなく、単に「困難を受けるもの」というよりも、「“これから”困難を受ける運命のもの(しかもそれを自身も悟っている)」という気がしてきます。
まぁ「冬のはじまる」わけなので、寒さや餌の少なさなど、当然「生計」の厳しさは予見されるものではあるのですが、「受難者めきて」と鳥に視線を向ける人は、神ではないですけど、人ならざる気配を持って予言をしているように思えてくる。

そして、この、予言の印象を結句「冬のはじまる」が後押ししているように思います。
この「の」の使い方は枕草子なんかでよく見るような、ともかくかなり文語的な表現です。「冬がはじまる」だと、現代的な“私”の言葉のようで、個人の見解というか、説得力が足りない。対して「冬のはじまる」と普段使いしない言葉で言い切られると、天からの啓示のようで、「そうか」と納得させられてしまう。文語にはそういう効果があると思う。

また「冬がはじまる」だとゆっくりしすぎだと思うんですよね。読む順序として、「冬の」まではこれが主格の「の」かは未定です。だから読み手は「はじまる」まで一気に読んでしまう。そのスピードによって「冬がはじまる」のときよりも、ぐぐっと急に冬が迫ってくる印象を受ける。夜のようにさっと来る。ここもいいなと思います。

具体的な感情は描かれていませんが、以上のように立ち上げられた景からは、なにか象徴的なものを受け取れます。
あと、とにかく立ち姿がかっこいい歌です。
これはぜひ歌集で、縦書きのものを読んでほしいです。

長くなってしまいました。ここまで。


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