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唯一無二の仕事

 『敗れし者なれど』という時代小説を読んだ。主人公の佐脇良之は前田利家の弟であり、あまり有名ではない実在した武将だ。物語は三方ヶ原で討死した良之がもしも生存していたら、という所から始まっている。信長に遠ざけられた過去もある良之は、侍としての自分の実績に忸怩たる思いを抱いている。妻子も持たない彼は、「生涯に一つでよい、何かをこの世に遺しておきたい」と、主君のもとを離れた一浪人の立場で、要人の暗殺を企図する。

 会社のような組織で働いていると、多くの職場には誰もが認めるような目立った活躍をする人物がいる。仮にAさんとしておく。Aさんがもしいなかったらどうなるのだろう。この職場や仕事は崩壊してしまうのではないか。職場の同僚たちはAさんの存在を讃えるとともに、もしもの時を想像して不安を抱いたりもする。そして現実に、Aさんがその場を去るということが時には起こりうる。Aさんの意志であったり、組織の都合であったり、理由はさまざまだ。私は過去にこのような状況を何度か目にしてきた。その後、実際にはどうなっただろうか。本当に組織が崩壊して、例えば誰かが責任を取らされたりしたのだろうか?結論としては、何も起こらなかった。気がつけば巨大に思えた穴は塞がっていた。液体が空隙を満たすように元の状態が復元維持される。その過程は残された私を含む当事者たちが想像したより、ずっとスムーズだった。職場でAさんの名前が口にのぼることもなくなる。

 アリ社会と人間社会の面白い一致としてよく引き合いに出されるのが、「働きアリの法則」である。共同生活を営むアリたちを、よく働くアリ、普通に働くアリ、働かないアリ、に分類すると、全体の割合は決まって「2-6-2」になるというのが法則で、働くアリだけを残しサボるアリを取り除いても、結局二割のアリは怠けるようになるという。この法則、どちらかといえば管理者目線から、怠けている人間を減らそうとしても、そうは問屋が卸してくれないといった例として参照されることが多い。先ほどの職場の事例は、逆に「よく働くアリ」を減らしたパターンである。驚愕のアリ社会の多様性を紹介してくれる、著書『アリ語で寝言を言いました』によると、これはあくまで一部のアリの種類に当てはまることであり、ほぼ100%のアリが生涯ブラック企業顔負けの労働を続けるようなアリの種も存在するらしい。ただ、もし仮にこの法則が丸っきりのウソだったとしても、先のエピソードのような実経験から、「働きアリの法則」が人間社会のひとつの真実を言い当てているという実感には変わりない。

 ここで、限定された組織から国や人類といった広域な社会に目を移してみたい。国内外、現在と過去を問わず、その名が広く知られる偉人たちが存在する。彼らの業績は空前絶後、歴史を変えたと讃えられ、専門家によって研究されるだけでなく、物語として創作の対象にもなり、人によってはその人格までもを全面的に信奉する場合すらある。彼らの偉業や世に与えた影響は彼ら個人が現れなければ、決して見ることのできなかったものだろうか?
 歴史の実験はできない。推測するのみである。ただし、この件についての私の推測はここまでの流れからご想像に難くないだろう。それは、「働きアリの法則」は狭い組織や短い期間に限らないのではないかということだ。偉人たちの業績は、本当に替えがきかないのだろうか。世紀の発見や偉業も時が過ぎれば、他の誰かによってでも為されていたのではないか。もちろん時期的に発見や偉業が遅くなれば影響の度合いや意味は変わる。ただ、早く為されたことが長期的に見てプラスかどうか、結局は誰にもわからない。人の一生だけでなく、国や人類全体といった大きな共同体の歴史にも、「禍福は糾える縄のごとし」という教訓は適用できるだろう。

 偉人たちの個人名が不要、無意味とは思わない。それらがなければ、歴史をはじめ過去や現在の出来事を説明することができない。ただ、それらは個人というより、あくまで時機を含めて様々な条件のもとで生まれた現象として見るべきであるように考えられる。精神科医の中井久夫の、「天才は小集団現象」という言葉は、さらに広く当てはめられるのではないだろうか。大小を問わず社会のなかで目立った働きをするか否かは、そこに最も近い、能力や性向、意欲、タイミングや環境などが合致した人物に訪れるものであって、意図して追及するものではないのではないか。偉人の話と比べれば卑近な例だが、10億円をかけて1億円の宝くじを当てることはできても、普通はそんなことはしない。

 もうひとつ、そもそも偉大な発見や行為がなかったとして、それは本当にマイナスなのかということ。著書『ピダハン』は、アマゾン奥地に住む、とある部族の驚くべき文化と世界観を伝えてくれる。ピダハンたちは、「直接経験の原則」により自分たちが直接見知っている以外の存在は認めず、文明を知りながらも部分的にしか受け入れず、原始的ともいえる彼らの文化に自信をもち、生活を変えようとはしない。著者はじめ関係する文明人たちは、ピダハンたちを「もっとも幸せそうな人々」と評している。

 冒頭の『敗れし者なれど』の帯文には、「名など惜しまずとも良い、命こそ惜しむべきものだ」という言葉が添えられている。これは作中に登場する、ある人物の口によって語られるセリフである。この世に生まれたからには何事かを成して死にたいと望んで刺客になる、良之の動機とは対称的だ。私は、良之の心理を現代的なものと読んだ。
 小説は三部作の第一部である。良之はこのあと何を思うのだろうか。

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※以下、本文で取り上げた三つの著作について、私がブクログに投稿した読書レビューのリンク先です。amazonへのリンクもあります。もし興味があればどうぞ。

『敗れし者なれど』石田 光名

『アリ語で寝言を言いました』村上 貴弘 

『ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観』
 ダニエル・L・エヴェレット


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