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書評:『職業としての政治』M.ヴェーバー

①紹介

社会学者マックス・ヴェーバーによる『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫、1980年)を紹介します。第一次世界大戦に敗れたドイツで、ロマンティシズムに溺れる熱狂的な学生たちに向けてウェーバーが行なった講演。そこで語られたことは、彼らの酔いを覚ますのに十分な効果を発揮したと言えるでしょう。

②考察

・「政治にとって決定的な手段は暴力である」
→ヴェーバーの説に従えば、国家が政治を運営できるのは、それ自体が独占している「暴力」によるものだ。今世紀どこの国においても市民革命が起きにくくなったのは、その手段である暴力が国家に奪われたからではないか。

・「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」
→「堅い板」は、現状維持の姿勢を指すか。政治において変化を嫌う傾向は古今東西に見られるようだ。野党は上の言葉を体現しているつもりで頑張っているのだろうが、絶望的に人数が足りない。

・「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」
→昨今の政治が倫理的に破綻しているためか、この言葉が綺麗事か理想の類に聞こえる者は少なくないはずだ。国民の政治に対する望みと現実の隔たりが大きければ大きいほどに。出る杭は打たれ続け、ほとんど出てこなくなった。国は民に冷たく、身内にはとことん甘い。

③総合

今の日本の政治家に足りないものは倫理だと言っても過言ではない。派閥の解体や裏金問題、そして増税。連日世間を賑わせているこれらのことが政治の腐敗ぶりを如実に物語っている。ヴェーバーの言葉を借りれば、彼らは政治家と言える存在ではなく、政治ごっこに明け暮れる「政治的ディレッタント」に過ぎない。ならば革命か。いや、暴力は奴らの手の中。奪還できないなら自分たちで生み出せばいい。SNSで。時代は変わった。

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