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読書:『塩狩峠』三浦綾子

①紹介

小説家の三浦綾子による『塩狩峠』(新潮文庫、2005年)を紹介します。明治時代に北海道で実際に起きた列車脱線事故に取材した本書は、主人公の鉄道員・永野信夫がクリスチャンとなり、犠牲の死を遂げるまでの物語。神の愛とは何か。その真髄に迫ります。

②考察

「愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか」
➢ 幼い頃に一目惚れしたふじ子を追って北海道へ渡った永野。ある日、伝道師・伊木の言葉に心打たれる。ここで言う「愛」は犠牲のことだと思われるが、一般的に実践は困難を極めるだろう。たとえ誰かと長く交流を持っていてもその精神が生じるとは限らない。また、それが特別良いというわけでもない。しかし、特別な意味を持っていることは確かだ。

「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います」
➢ 伊木は続けてこう言う。私を含め、現代に生きるクリスチャンはよく押さえておくべき点だろう。彼の説に従えば、人間は自分の罪によって気づかぬうちにキリストを十字架につけてしまう存在だ。まさに「義人なし、一人だになし」(ローマ書)である。時代は変われど、罪を犯す性質は人間みな平等のようだ。

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん」
➢ 脱線した列車の乗客全員の命を救い殉教した永野。ふじ子とともに事故現場を訪れた兄・修の脳裏に浮かんだのは上の聖句(ヨハネ福音書)である。足の障がいと、当時忌み嫌われていた重病をも克服した矢先、彼女は許嫁を喪ってしまった。のちに信仰の狼煙が上がることを永野は予見していたのだろうか。だとすれば、その信仰は本物だったと言うほかない。

③総合

犠牲について考えることが難しいのは、それに「二度目」がないからだろう。しかし、これは死に直結する問題であり、信仰の有無を問わず誰もが向き合うべき課題だ。決して綺麗事ではなく、場合によっては、伴う苦悩は計り知れないものとなる。大切な人がそばにいれば尚更だ。長い人生の中で犠牲の意味を教えてくれるのはその人と神なのかもしれない。

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