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読書:『犠牲』柳田邦男

①紹介

ノンフィクション作家の柳田邦男氏による『犠牲-わが息子・脳死の11日』(文春文庫、1999年)を紹介します。ある夏の日、心を病んだ次男が自死を図り緊急搬送。その後に判定された脳死という現実。本当の死が訪れるまでの数日間、残された家族が葛藤と苦悩の末に選んだ答えとは。逝く息子と彼を見守る父による魂の記録です。

②考察

「もちろん脳死患者だからといって放置するのではなく、私たちは生きている患者さんと同じように最後までお世話をします」
➢ 次男・洋二郎さんが運ばれた病院で彼を担当する冨岡医師の言葉。ここからは、脳死を人の死と同一視せず、家族目線を持ちながら患者に寄り添う姿勢が読み取れる。医者とは本来そうあるべきだ。患者と家族の意向を無視した医療に未来はない。

「ただ弟の臓器を利用するというのでなく、病気で苦しむ人を助ける医療に弟が参加するのを、医師は専門家として手伝うのだ、というふうに考えてほしいと思うんです」
➢ 兄・賢一郎さんの言葉。自分の死後、この世の誰からも忘れ去られ歴史の闇に葬られることをこの上なく恐れていた洋二郎さんの思いを汲み、家族は献腎の意思を表明する。これは、誰かの役に立ちたくても、心の病ゆえにその一歩をなかなか踏み出せなかった彼の背中を押すことの表れだろう。

「死を大事にするとは、死にゆく時間を大事にすることだと思う」
➢ 柳田氏はこのように考え、脳死を人の死と同一視する臓器移植推進論者を暗に批判する。患者が眠っているそばで医者に科学的理論を聞かされてすぐに納得する家族がいるだろうか。否、感情が理論を上回るに違いない。本当の死が来るまで患者と家族が「対話」できる環境と機会を医者は惜しみなく提供し、それを見守る必要があろう。

③総合

本書の内容は2009年に臓器移植法が改正される前の出来事なので事情は少し違うかもしれないが、脳死を人の死と見なすか否かについての議論は今も行われている。生命倫理の複雑さ・難解さが窺えよう。脳死と向き合うということは、臓器提供の意思の有無に関係なく、患者も家族も医療当事者になることを意味しているのではないか。

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