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書評:『遊動論 柳田国男と山人』柄谷行人

①紹介

哲学者の柄谷行人氏による『遊動論-柳田国男と山人』(文春文庫、2014年)を紹介します。人は国家と資本をどう乗り越えるべきか。鍵を握るのは、民俗学者の柳田国男が古来より続く日本の固有信仰に見出した「山人」の概念です。

②考察

● 「周辺部の自立と繁栄のためには、中央に対する闘争だけでなく、その内部における『中心―周辺』の構造、あるいは『目に見えぬ階級』を克服する必要がある」
➢ 「周辺部」とは、日本で言えば北海道や東北、沖縄など、端の地域を指す。柳田によると、山人は中央に「抑圧された先住民の末裔」だという。世に蔓延る差別の多くはこの「構造」や「階級」が原因か。山人が真の意味での「日本人」ならば、私たちは一体何者?

● 「柳田がいう固有信仰の核心は、祖霊と生者の(略)愛にもとづく関係である。柳田が特に重視したのは、祖霊がどこにでも行けるにもかかわらず、生者のいる所から離れないということである」
➢ 祖霊が生者のもとを去らないのは愛ゆえか。双方の目に見える関係性が失われても、愛で結ばれていると考えるからこそ、祖霊崇拝は存続しているのだろう。そういう意味で、これは一神教の神を信じるより遥かに易いと思われる。亡くなった家族や友人を悼む時、「◯◯が近くで見守っているよ」と思う者は山人の末裔なのかもしれない。

● 「資本=ネーション=国家を越える手がかりは、(略)狩猟採集民的な遊動性である」
➢ 日本史における狩猟採集は定住・稲作の前段階であるため、山人はノマドとは異なる。後者が資本主義的なのに対し、前者はこの抑圧された遊動性を取り戻す点で社会主義的だ。経済思想家の斎藤幸平氏が言う「脱成長コミュニズム」に通ずるものがある。

③総合

山人そのものは日本史上存在しておらず、特定の民族でもない。柄谷氏が「思想」だと言ったそれは柳田にとっては一つの重大仮説だったのだろう。あるいは吉本隆明が説いた「共同幻想」なのかもしれない。いずれにせよそれが、国家や資本の膨張を抑える可能性に満ちていることは確かであり、氏が「交換」の一様式に位置づけたことは社会矛盾の理解に十分に資する。

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