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書評:『シッダールタ』ヘルマン・ヘッセ

①紹介

ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセによる『シッダールタ』(高橋健二訳、新潮文庫、1992年)を紹介します。主人公は歴史上のブッダ(仏教の開祖)ではなく、混迷の時代の中で己を探すために、ヘッセ自らが仮託して作り上げた架空の人物だと理解したうえで読むと分かりやすいかもしれません。

②考察

・「人は何も学びえないということをさえまだ学び終えていない!」
→バラモン(祭司)から沙門の道へ。シッダールタにとってあらゆる知的活動は苦行の妨げに過ぎない。自我の再来と超克を繰り返す彼はまだ無我の境地に至れず苦しむ。人生において知り得ることは何もない。ただ、それは動機の面で思考停止とは異なるものだろう。

・「生きとし生けるもののすべての声が川の声の中にある」
→俗世に長く身を置いたことで乱心したシッダールタは、渡し守に促されて川の声を聴き、他者の教えや自分にもよらず、同じ姿を二度と見せぬ「自然」に己の人生を見る。『方丈記』の冒頭にある諸行無常の理を思わせる。

・「涅槃であるような物は存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ」
→本質はいつか言葉から離れさまようものなのだろう。言葉は本質を覆う器でしかない。キリスト教徒としての私が持つ信仰もこれと似ている。川の声を聴いたシッダールタは命をかけて完全に俗世から自らを解き放ち、無我の境地に至ったのだろう。

③総合

社会の構造に振り回される少年の青春を描いた『車輪の下』と、自己探求を主題とする『デミアン』。以前紹介したヘッセの代表作であるこの2冊の内容を足して2で割ったものが本書だと言っても強ち間違いではないだろう。現代ほど物質や誘惑に満ちていない古代に生きたシッダールタでさえこれほど苦しんだ。電波が飛び交うデジタル社会に生きる私たちの煩悩は尚更だろう。どのようにして生きていくのかは人それぞれだが、自然を常に慈しむ姿勢は以後も心に留めておきたい。

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