空気を読むことと思いやること

自意識過剰の自分にとって常に頭にある言葉だ。

誰かのために「空気を読む」。誰かのための「思いやり」。
最近、この二つの言葉の違いがわかった。
「空気を読む」とは憶測であり、「思いやり」は確信である。

自分は空気を読む方法しか知らない。
空気を読むとは、ある事柄を自分目線で読み取ってみることだ。
つまり、それはあくまでも憶測にすぎず、周りを気遣っているように見えるが、非常に自己中心的である。
空気を読んだことを喜ばれるのは、その憶測が当たった時だけだ。
しかも当てるときは、大体周りの人となんとなく答えを見せ合いながら当てる。
よって、一方的に空気を読むことはとてもリスクが高いことがわかる。

一方で思いやりは確信だと言った。
誰かに思いを向けることは憶測から発生するのではなく、自らの経験や他者の体験談と重なった時、始めて成立する。
つまり、思いやるためのデータが揃っているときに思いやりが成立するわけである。
そうするとその思いやりの成功率は必然的に憶測なんかより高くなる。
この計算がうまくできる者は、憶測よりも確信を持って行動を起こすだろう。

「空気を読む」という表現を持ってしまった日本人はこの憶測と確信の間を上手く調整しながら気を使わなければならない。
これを器用にできる日本人とできない日本人がいることを誰かに伝えたい。


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