真夏雨【短編小説】

 煙草の香りが鼻の先に霞む、カフェコロラドの、窓際の円卓の席で外を眺めながら注文を待つ。座ってすぐ置かれたおしぼりとお冷。店のライトと窓からの少しの自然光で透明にちいさくキラつくグラスのその水面がとてもきれいで、卓に頰杖をついているその肘をトンとグラスに当ててみた。冷たい。私の無機質な丸く小さい骨の肘が冷たくてきもちいい。 そしてもう一度、今度は少しの力を、助走をつけて肘をグラスにトンッッと当ててみた。するとキラつきを孕む小さな水面はおおきく波打ち、水はピャッと一秒円く卓に溢れた。私の両肘は、その上までも冷たくってきもちよかった。  店主のおじさんも客たちも、誰ひとりとして私をみていない。ただ、別にうるさくもない下世話な声色の談笑と、ほんのすこしの煙草の匂いがそのままに続いていく。だから私は、まぁいいか、とか思って、肘の助走距離をさっきより長めに勢いづけドンッとグラスに当て、そしてそのまま強気で怯むことなくドシャッと最後までグラスを押した。その衝突に、左肘はすこしの衝撃を受け入れながらまた冷たくなり、グラスは最後まで水面を放ち切って完全なる爽快な死体と成っていた。その水は、私が真夏でも絶対に欠かすことのないストッキングを無視して直通し、私のそのままの脚を濡らした。わたしはその時雨だ!と思った。これは雨だ。冷たくってきもちいい。雨だ。 小学校の時、雨が降れば体育の授業は運動場から消化された。私が縋る思いでひとり教室の窓から祈っていた、あの愛しい渇望の雨。私を縄跳びから、鉄棒から、ドッジボールから救ってくれた雨。劣等感をそれと知らぬまま虐まれる、あの苦しい心を救ってくれた雨。それはもちろん毎回ではなくたまになのだけれど、雨はわたしをつよくつよく抱きしめてくれた。サスペンスの死体役よりも火の打ち所のない、完全で完璧な死体と成ったグラスから最後まで流れ出てしまった、美しい水面。それはうつくしい雨と成った。随分昔のあの日々の、懐かしくて暖かい雨。
 せっかくだからこのままで帰ろうか。それともストッキングは脱いでから帰ろうか。今日は暑い暑い真夏日だから、どっちだって良い。どっちだってとても良い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?