見出し画像

茶屋と遊廓の歴史

江戸時代、日本全国で街道が整備されると、客に茶を出して休憩させる場所ができました。

これを茶屋といいます。

結構儲かったのでしょう。店舗と種類が段々と増えていきます。

渋茶専門の店ができたかと思うと、お茶だけでなく、ダンゴや饅頭、甘酒を売る店がでてきます。それから飯や煮物、酒も出すようになります。

峠や神社の前に店を出し、夕刻になると店を閉めて帰るものを「出茶屋」と呼んでいました。(現在の出店や屋台のようなもの)

そのうち、茶屋と住居を一緒にするようになっていきます。

こうして、見世(店)としての体裁が整ってきました。

これらの茶屋を、茶の葉を売るお茶屋さん「葉茶屋」と区別して「水茶屋」と呼ぶようになりました。

そして、水茶屋はお客を呼ぶために、美しい女性を置くようになり、彼女達は茶屋女と呼ばれるようになります。

料理を出す料理茶屋、会席料理を出す「会席茶屋」(関西から西は振舞茶屋といった)など、茶屋は発展していき、酒に女が入る「遊び茶屋」となると、そこの茶屋女が春を売るようになりました。

1740年には大阪で「踊子茶屋」が取締りを受けます。

名前の通り、茶屋に踊り子がいて彼女達が、さかんに色を売っていたからでした。

「揚屋茶屋」というのもあり「あげや」と呼ばれていました。

西国ではただ「茶屋」とよばれていたそうです。

ここでは吉原の遊女などを茶屋へ呼んで遊んだりしていました。ただし、この頃は茶屋で遊女を抱くことはできなかったようです。

「吉原も古くは揚屋あり。中古以来絶亡し、今は茶屋あるのみ、茶屋には双枕を許さず、芸者をあげて酒宴は許す、女郎も茶屋まで送迎するなり」と書かれています。

相思相愛の男女に場所を貸すのが「出会茶屋」と呼ばれました。(現代のラブホテルみたいなものです)

これはつれこみ専門の茶屋で、関西より西では「待合茶屋」「待合」とも言われました。

福岡でも1741年に松原に「水茶屋」ができます。ここは「新茶屋」と呼ばれ、石堂川を挟んで柳町にも近く、柳町に対抗して繁盛しました。

遊郭である柳町には侍の立ち入りは禁止されていましたが、新茶屋は規制されていませんでした。

ですから、黒田武士は新茶屋で遊びました。慶応元年に都落ちした五卿も、この新茶屋で遊んだという記録が残っています。

新茶屋は芸子はいましたが女郎はおらず、遊郭ではありませんでした。

柳町に対抗して、新茶屋は宴席を主とした遊びの場に力を注いでいたのです。石堂橋を挟んで柳町遊郭と新茶屋があったので。

「往こか帰ろか新茶屋に寄ろか ここが思案の石堂橋」と歌われました。

明治になり、芸娼妓解法令が出され、遊郭が貸座敷と名前を変えた時、茶屋にも貸座敷としての営業が認められました。

先述の翠糸学校のとこでも書きましたが、この茶屋の存在は柳町には脅威でした。

ところが一転して明治22年12月、茶屋の貸座敷営業は禁じられます。

近い距離に公認の売春地区が二つもあると、両者の競争による風紀の退廃や防犯上も支障をきたすからというのが理由でしたが、繁栄を奪われた柳町側の裏工作もあったのではとも言われています。

サポートして頂けると、クリエイター冥利につきます。でも、決して無理はなさらないでください。