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これがイジメのはじまりです 「入れ替わる被害者と加害者」の論理 イジメ現象学

いじめた人を、いじめた人は、いじめた人には、当たらないのか?

要約
1、入れ替わる被害者と加害者
  認知や構造上の問題で加害者と被害者の取り違えが起きている
2、「イジメ→邪魔」するヤツを許すな
  加害者とはどんな人のことを指すのか
3、正す止める無くすことの行方に
  加害者と見做されればイジメに遭う
4、結論
  加害者をも守れ


1、入れ替わる被害者と加害者 

なぜこの国のイジメ問題に終わりが見えないのか。

その1つの要因として、イジメ問題の当事者やその保護者、さらに教育界をも含めた世間一般の問題認識において、「加害者に対するイジメ加害」が起こり得るという認識が欠落している点が挙げられる。

「加害者がイジメに遭っている」
「加害者だからこそイジメられている」
「加害者が被害者に反撃を受けている」
 こういったケースが全く想定されていない環境がある。

そしてさらに、そういった欠落した問題認識の延長線上で「加害者と被害者の取り違え」が頻繁に起こり続けているという現実が隠されている。

それは即ち、
「加害者を叩こうとして叩かれた人が被害者となり、
 被害者を守ろうとして守られた人を加害者と呼んでいるに過ぎない」
ということである。

・誤解
「被害者が不当に叩かれる」
「不当に守られる加害者」

・正解
「不当に叩かれた側を被害者と呼んでいる」
「守られた側を加害者だと認識している」

多くの環境で見られる加害者叩きの在り方は、陰湿“ではない”単純なイジメ問題に際しては有益に働くことを否定しない。しかし陰湿と呼ばれるもの、即ち“複雑性を孕んだ”イジメ問題に差し当たっては、加害者叩きこそが裏目に出る構造が隠されている。

それが今日まで続く理不尽だと“思われている”教育界の在り方を構成してしまっているのである。


そしてその理不尽だと思われている教師や日本のイジメ問題における加害者像の主な特徴というのは、「イジメを正そう,止めよう,無くそう」としてきた人たち、正義を謳う人たちの存在である。

これは正義の暴走”ではなく”、正義という発想そのものがそもそも持っている構造的な問題が、学校や会社を始めとした狭い環境内で悪影響をもたらし、それがイジメ問題を助長させる要因となっているということである。


日本のイジメ問題の特徴であり最大の矛盾点は、
加害者に対するイジメの抑制機能が全くと言って良いほど見当たらない点にある。

それは要するに、周りに加害者だと“思われてしまったら”最後、死ぬまでイジメられ続ける環境があり得るということである。


今日においてもなぜ酷いイジメに遭う人が後を絶たないのかと言えば、被害者Xの存在こそが相手から見て加害者Xであったという可能性があるからなのだ。

2、「イジメ→邪魔」する者を許すな

この矛盾を分かりやすくするために、「イジメ」という言葉に「邪魔」を代入して説明する。

「イジメ」をする者を許すな
 ↓
「邪魔」をする者を許すな

まず単純なイジメ→邪魔問題の例として、学校の通学路などの往来において、加害者が被害者の前に立ちはだかって進めなくするような状況を想定する。

🏫 🕺🕺🕺→←😣 🏠
      ↖︎🖐😡

🕺🕺🕺通さないぞ:邪魔する者
↑↓↑
↑🖐️😡邪魔はダメ!:正義の執行者

😣進めない:邪魔されている者

このような単純なケースの場合、「邪魔(イジメ)をする者を許すな」という正義🖐️😡の発想は、いわゆるの加害者🕺🕺🕺を抑制,打破することに貢献し、被害者😣を救済するのに大いに役立つものである。

これが一般的に唱えられているイジメ(邪魔)防止,抑止の考え方である。


しかし複雑性を孕んだイジメ→邪魔のケースを想定した場合はどうか。


これは例えば集団下校をするタイミングで、忘れ物に気付いて教室に戻ろうとすることや、急にトイレに行きたくなった状況だったとする。

🏫 🕺🕺🕺→←😣 🏠
    🖐😡↗︎

🕺🕺🕺もう帰るんだぞ!:邪魔されている者

↓↓🖐️😡勝手な行動はダメ!:正義の執行者?

😣戻りたい…:(結果的に)邪魔になっている者

全体🕺🕺🕺が帰宅の途につこうとしている最中、個人😣がそれに逆行する形で全体の流れを止めてしまっている。

そして先ほどの単純な邪魔(イジメ)問題であれば被害者😣を助け出すための正義として機能していたはずの存在🖐😡が、複雑性を孕んだ場合に裏目になる可能性が出てくる。


それは故意ではなく結果的に邪魔(イジメ)をしてしまう存在😣をも“加害者(邪魔する者)と認識し”、彼らの前に正義の執行者として立ちはだかってくる問題があるのだ。


要するに、イジメ(邪魔)防止の考え方は、イジメ(邪魔)に“なっている”状況の場合、イジメ(邪魔)を肥大,悪化させていく発想なのである。


この構図は、体育祭などの行事や遊びの中の関係性において、足を引っ張った存在が非難の嵐に曝されるのと同じものである。

集団生活で一致団結した行動を求められる状況において、正義という在り方自体が“失敗者叩き”に傾く性質を孕んでいる。


イジメ(邪魔)を悪だと捉えることこそが悲劇を招くものだったということだ。

3、正そう止めよう無くそうとすることの行方に

こういった邪魔→イジメ問題において、加害(邪魔者の邪魔)の後押しをしてしまう正義の発想には以下ようなものが該当する。

「(邪魔→)イジメは許されない」
「どんな理由があったとしても(邪魔→)イジメをするヤツが悪いのだ」
「(邪魔→)イジメをするヤツには罰を与えるべきである」

イジメを邪魔などと置き換えて問題を相対的に観測してみれば、いわゆるの正義、正しいと思われてきた認識にこそ、加害者の論理が潜んでいることが分かる。

そしてだからこそイジメ問題が発覚した際に彼らはこのように曰うのだ。

「僕は悪くない!」
「だってアイツが悪いんだよ!」
「私の方が被害者だよ!」

いわゆる加害者の言い訳

…果たして邪魔(イジメ)をした者の存在、加害者とは誰のことだったのか。

🖐🕺 🖐😡 🖐😣

邪魔した者は手を挙げて

また、イジメを邪魔と置き換えること以外にも、「他者を傷付けてはいけない」や「嘘をついてはダメ」などの一見すると正しく聞こえる教えにも同様の問題が潜んでいる。

要するに、否定的なメッセージや認識そのものが結果的に人を被害者から加害者へと陥らせる要素が含まれているということである。

4、結論

近年の日本で最も多くイジメ被害に遭ってきた存在、それは他ならぬ「加害者(と認識された者たち)」の可能性があるのだ。

そして結果的にとはいえ加害者(邪魔した側)だったからこそ寄って集って否定され(正す)行く手を阻まれ(止める)挙句に仲間から追放される(無くす)自体を招いているということである。


この国の対策は間違っている…というよりも、むしろ正しいからこそ、正義を求めてしまうからこそ、邪魔→イジメの問題に終わりが見えなくなってしまっている側面が強い。


また日常で取り沙汰されるイジメの話題において、社会問題化するほどのケースに潜んでいるのは、義憤に駆られた人たちが悪だと見做した存在に群がってくる、そんな状況ばかりである。

もしもそのイジメ(邪魔)の始まりが悪意からではなく、認識の誤り、構造上の問題で結果的に起こる衝突だったとしたら、正義を謳っている人たちは一体何をしてきたのだろうか。実際にはどんな性質の人たちなのだろうか。


多くの自治体のイジメ対策を確認してみても、加害者(に見える被害者)をどのように守っていくのかについての見解が見当たらない問題がある。

この国に欠けているのは「被害者(に見える加害者😣)」のみならず「加害者(に見える被害者😣)」までもを守るという覚悟や仕組みである。


加害者だと思われれば最後、八つ裂きにされかねないこの国で、果たしてイジメが無くなる日など訪れるのだろうか。

…というかそもそもイジメが無くなることが本当に良いことなのか。

イジメを悪だと見做す皆様へ。
加害者(邪魔者)だったらイジメて良いと思っていませんか?

貴方の愛する存在が誰かを傷付けてしまう可能性も想定した対策がとられているか、学校や自治体の方針を確認しておくことをお勧め致します。

イジメ現象学/イジゲン

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