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今になって、適応障害期を"あえて"思い出してみる。

僕が適応障害という診断を受けて、だいたい4年半が経過しました。
適応障害と診断れた直後の記事はこちら。

僕は適応障害→双極性障害という診断に変わったんですけど、今になってようやく、適応障害だった時期のことを冷静に振り返られるようになったんですよね。

なので、今回はちょっと適応障害期について振り返ってみようと思います。

2019年 適応障害の診断を受ける

適応障害の診断を受けたことは、それはもう、大きな衝撃でした。
普通の会社員だった日常が一変し、自分の身体と心が思うようにコントロールできない状態に陥りました。
適応障害になる時って、「ある日、突然」なのか「じわじわ」なのか、どっちかだと思うんですけど(僕の主観です)僕の場合は「ある日、突然」でした。まあ、心身のストレスは「じわじわ」と蓄積されていたんだと思うんですけど「ある日、突然」会社に行けなくなり、具体的には布団から起き上がれなくなってしまいました。無理やり体を起こして会社にいっても、同僚の挨拶は無視するわ、上司ともまともに会話もできないわ、社内で仕事をしていると足元から崩れ落ちるようで、「こりゃどうもおかしい」と思って、妻に引っ張られながら心療内科を受診しました。
突然、平穏だった日常生活は、重くのしかかる負担そのものに変わり、寝食ですら苦痛。生活すること自体が大きなストレスとなりました。
僕は適応障害になってから、10ヶ月の休職期間に入るのですが、はじめの三ヶ月くらいは『ペルソナ5』と『デスストランディング』しかできませんでした。というか、ゲームしかできない。でも、ゲームをしている間も、頭の中では自分を責め続けるているのです。ゲームをすることでしか、そこから逃避することができなかった、という感じです。

診断を受けた時は正直ホッとした。

今思えば僕にとって「躁うつ」の気は、学生のことからあったはずなんです。
ですが、この時、もう30代に突入した段階で、自分が「気分の波がある」体質だと知ったんです。
よくこの話をして、聞かれるのが「病院で診断を受けた時はどんな気持ちだったんですか?」ということなんですけど、今、思い返すと、僕は正直、ホッとしていたと思うんですよね。
この時の症状、つまりうつ状態は、今までに経験したものより、何倍も酷く感じられて、「いったい、俺の体に何が起こっているんだ!?」という感じだったんですが、病院で診断を受けた時は、「安心」したような気がするんです。

「ああ、今、俺のこの心と体に起こっていることは、医学的に病名が付けられている現象なのか」と。
論理的に説明できることに、安心感を覚えたんですね。

適応障害の中でも個人のメディアでのインタビューだけは続ける。

適応障害のうつ状態の苦しみの中で、僕が会社員時代に立ち上げたWebメディアの更新だけは続けていました。
僕は『ニソクノワラジ』という「複業」をテーマにしたWebメディアを個人で運営していて、執筆から編集、撮影も全てひとりでやっているんですが、そのWebメディアの更新だけは、適応障害の苦しみ(というか、今思えばうつ状態の苦しみ)の中でも続けていました。

創作だけが、僕にとって「光」でした。
ニソクノワラジを続けることによって、どうにか社会的なつながりを保持していました。僕と社会と人間関係をどうにか繋ぎ止めるために、インタビューだけは続けていたのです。インタビューすることに縋り付いていたと言っても過言ではありません。

2020年には一度、復活。しかし、またうつ状態に。

適応障害の診断を受け、深刻なうつ状態を経験したことにより、精神的にも肉体的にも、どん底へと落ちてしまったのですが、一時的に光が見えた瞬間もありました。
会社員を辞めてから、「これからどうしよう・・・」というぐるぐるぐるぐると、ドツボにハマっていたのですが、しばらくしたら、フリーランスとして、仕事をもらえるようになったのです。
しかし、その後、再び暗闇に包まれることとなります。一度は立ち直りかけたものの、再びうつ状態に陥ります。

そして、最終的には双極性障害の診断を受けるに至りました。
この時期の落ち込みと回復は、私にとって新たな試練でした。

しかし、その中で創作活動が私にとって唯一無二の救いであることを実感しました。Webメディア「ニソクノワラジ」の更新や、やがてパステル画を描くことによって、どんなに小さな光でも、創作することが、僕を支え、僕と社会とを繋ぎ止める大切な役割を果たしていました。
創作という行為が、苦しみの中でも、その苦しみ自体を表現し、外界との繋がりを保つ手段だったのです。正気を保つ手段とも言い換えられます。

僕は僕の正気を保ち続けるために、インタビューという「創作」をひたすら続けました。

それは、適応障害になった時でも、双極性障害のうつ状態になった時でも、変わりませんでした。

たったいま、適応障害に苦しんでいる人へ

適応障害の診断を受けたことで、苦しみを抱えていると感じてしまうかもしれません。
うつという嵐が、頭と体の中を駆け巡っていることだと思います。

「なぜ、自分が」
「俺はただ、真面目に生きていただけなのに」
「仕事に適応できない自分が悪い」

頭の中では自分を責める言葉が反響し続けているかもしれません。
僕もそうでした。

本当に僕もそうでした。

でも、僕のうつから学んだことは、果てしなく続く「孤独」や生きる気力さえも失わせる「絶望」を感じたとしても、うつという澱みの中で泥まみれになっても、そこからゆっくりと、這い上がることができるということです。
僕は適応障害に苦しんでいる時(もっと言えば双極性障害のうつ状態)に苦しんでいるとき、まるで地下室に閉じ込められているようでした。暗い地下の牢で足枷をはめられながら、いつ来るかわからない処刑の時間を待っているようでした。

しかし、やがて、僕はその牢獄の壁に、小さな小さな穴を掘り始めることになります。

そう。それは「創ること」です。
「創ること」はうつ状態に苦しむ僕にとって、脱獄するための、ノミであり、ノミを叩くハンマーでした。

創作活動を通じて自己表現をすることは、僕にとって脱獄行為だったのです。
それは、この永遠にも続くような牢獄から、脱することができるかもしれない、唯一の「希望的な行為」でした。

それが、インタビューであり、文章表現であり、パステル画を描くことでした。

それは僕だけでなく、適応障害に苦しむあなたにとっても同じことが言えるかもしれません。たとえ今は牢獄の中にいると感じても、少しづつ壁に穴を開けて、外の世界から、暗闇を照らす光を牢の中にもたらすことができるかもしれない。
一歩ずつでいいんです。

一歩ずつ、そして少しずつ、掘り進めてください。

うつ状態がひどくて、会社を休んでも、退職しても、周りに何を言われようが、あなたの苦しみはあなただけのものです。苦しみは相対値ではなく、絶対値なのです。
苦しみは人とは比較できないものなのです。

だから、決して一人だと思わないでください。苦悩に困り果てた時は、周りの「経験者」に相談してください。
もし本当に誰もいない時は、僕に相談してください。

次は「今になって、双極性障害の初期段階を思い出す」を書いてみたいと思
います。



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