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躁うつ病時代を生き抜く創作術2 -我々は原則的にみな「無才」である-

昨日は、苦しい生活の中で、「光」をもたらしてくれるのが「創作」である、というところまで書きました。
これ、今の時代、「創作」っていうと、なんかめちゃくちゃハードルが高いイメージありませんか?SNSにアップされている作品はどれもこれも高クオリティだったり、技術も高いし、「俺、こんなところに飛び込んで大丈夫だろうか」そうやっていつの間にか、自分で「創作活動」のハードルを上げて、途中で辞めてしまった。そんな人は意外と多いんじゃないでしょうか。

その気持ち、僕も無茶苦茶わかります。

僕も学生の頃は小説を描いてみたり、まあ、小学生の頃は漫画を描いてみたり、まあ、昔から創作活動的なことをしていたのですが、小学生の頃は、同じ学年だけでも、僕よりも断然漫画が上手い子を見て「こいつには敵わないな」って思って書かなくなったり、小説に関しては、同世代に巨大な小説家がいたりして「この人がいるんだったら、俺が書くものなんてないな」とか思って、書かなくなったり。まあ、勝手ですね。勝手に自己完結して、創作活動を辞めていったんです。僕は井の中の蛙である、と言う大前提の前に、人類の「そもそも」に立ち返れていなかったんです。

それは「原則的に人間は平等に、無才である」ということです。

無才。

つまり、人間は基本的に才能がないということです。

僕はどこかで、「自分には才能が備わっている」と勘違いしていました。勘違いです。どこかで、僕たち人間一人ひとりには、特別な才能が備わっていて、どこかでそれが開花するはずなんだ、と思っていたんです。特に躁うつ時、特に「鬱」期は、「俺は天才なのに、布団に倒れている。何をやっているんだ」という勘違いが暴走します。天才であるはずの俺(これはまったく持って勘違いです。平常時はこんなこと考えていないのに、不思議です)と、世間に何も提示できていない俺。世間に何も影響を及ぼせない俺。この世間と自己認識の摩擦が起こって鬱になります。つまり、窮屈になるんですね。窮屈とは鬱です。

僕は天才じゃないし、世間も俺を天才とは思っちゃいない。そう割り切ることにしてみたんです。それでいつでも「無才」と言う場所に立ち返れると思うと、楽になります。まず創作活動をするときは「自分は無才である」ということに立ち返りましょう。もしかしたら、世間には「天才」がいるかもしれない。でも、「天才」の定義は流動的だし、「天才」にはいつだって不確実性が付きまといます。今、「天才」と観測されている彼らも、もしかしたら、無才の末に「天才」という認知に至ったのかもしれない。僕は今まで世間の「天才」に話を聞いたことがないのでわかりませんが、「天才」の彼らももしかしたら、自分のことを「無才」だと思っているかもしれない。つまり「才」とは世間からの観測なだけであって、自己認識での「天才」はあり得ないのかもしれない。そんなことを考えたりしています。

いつのまに、こんなにも「才能がないと創作してはいけない」という空気になったのでしょうか。世間に認められないと創作してはいけない。お金にならないと創作してはいけない。仲間に認められないと、家族に認められないと、創作しなきゃいけない。それには才能がいる。早く才能に見切りをつけて、才能がなかったら創作活動には見切りをつけなきゃいけない。
そんなことないと思うんですよね。別にお金にならなくたって、別の手段でお金を稼いでいたり、仕事を持っていたり、世間に認められなくたって、自分の「創作」の車輪を見つけたら、その回転は止められないし、止める必要はないと思うんです。自分が飽きるまで、創作をすればいい。僕らは無才なのです。才能がないのです。それが前提なのです。だから、誰かに才能を認められるために創作をするのではなく、ただひたすら自分のために「創作」を続けましょう。別にプロにならなくたっていい。アマチュアでいい。プロになる必要はありません。孤独に「無才」の道を進めば、その「無才」の勢いが、道を切り開いてくれて、ひとりでに歩きはじめるかもしれません。「無才」は真っ白で、偉大なのです。

いつだって、我々は「無才」であり、そして自らの「無才」の島を開拓する必要があるのです。

そこで「無才」の穴を一人で掘り続けるのです。無心で、ただひたすらに、「やりたいこと」「好きなこと」という「穴」を、掘り続けましょう。

「無才」の穴を掘り続けることは、自分自身と向き合い、自分の心の奥底にあるものを探求することでもあります。その途中で、時に挫折や迷いを感じることもあるでしょう。

才能がないのではないか、本当に「合っている」のだろうか、と不安になる瞬間もあるかもしれません。

でも、それは勘違いです。そう。あなたは「無才」です。
「無才」であることを思い出してください。才能なんて、初めから誰にも期待されていないのです。
だからこそ、自由に、のびのびと、自分の心のままに掘り進められる。失敗を恐れる必要はないのです。誰になにを言われても、自分の「穴」だけを掘り続けましょう。

掘り進める中で、きっと自分でも気づいていなかった思いや感情に出会うはずです。
そこには、あなたが本当に表現したいもの、伝えたいメッセージが隠れているのかもしれません。

だからこそ、「無才」の穴を掘り続けることが大切なのです。たとえ周りから理解されなくても、たとえ一人きりでも、自分の内なる声に耳を澄まして、「好き」というドリルで、「穴」を掘り進んでください。

その先に広がるのは、世界に一つだけの表現の世界。
あなただけの創作の景色です。
きっと、思いもよらなかった光景が目の前に広がっているはずです。

あなたが作ったものは、荒削りで、未完成で、時間もかかって、お金もかかって、非効率的なものかもしれません。
でも、だからこそ尊い。
効率や完成度ではなく、あなたの魂が宿っているからこそ、かけがえのない価値を持っているのです。感情を叩きつけましょう。

だから、どうか「無才」であることを恐れないでください。むしろ「無才」であることを常に胸に抱いて、自分だけの穴を掘り続けましょう。

「やりたいこと」「好きなこと」に没頭する時間こそが、あなたの人生に深みと意味を与えてくれる。
創作という行為を通じて、あなたは自分自身と出会い、自分らしく生きることができるのです。

穴を掘り続けることで、やがて、あなただけの泉が湧き出てくる。その泉は、あなたの人生を豊かに潤してくれるでしょう。そして、その泉は他の誰でもない、あなただけが辿り着けた場所なのです。

だからこそ、「無才」の穴を掘り続けること。

それが、創作という人生の冒険を続けるための、たったひとつの方法です。

じゃあ、次回は、その「好きなこと」と「やりたいこと」の見つけ方を書きたいと思います。

今日のパステル画『傘越し』

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