おぼろげになる力

私は目が悪い。小学校のころから視力は0.01付近から上がることはなく、常に世界はぼやけていた。自分はそれが普通だと思い、目が悪いということを誰も言わなかった。

自分の視力が低いことに気づいたのは担任だったらしい。体育の球技でボールが取れないことを疑問に思った先生は私に眼鏡をかけることを進め、
わたしはようやく小学校3年ごろに眼鏡をかけ始めた。それが原因なのかはわからないが、私はアナログ時計が苦手だ。時計の短針と長針を読む授業の時に使われたダミーの時計が見えづらく、読み方が結局わからなかったから。そしてデジタル時計は数字がそのまま時間を示してくれるので、その時計がある場所は安心できて、アナログ時計だけだとそわそわしてしまう。

そういうわけで私は眼鏡なしでは日常を送れない。裸眼だと私の目の前の世界はぼやぼやに溶けて、湿ったティッシュペーパーの上に広がるアクリル絵の具のように捉えがたいものとなってしまう。ものとの距離感も失うため常に解放しているのかガラス戸なのか直前までドキドキしている、文字も読めないため、自分が今どこにいるのか地名で判断することは難しい。そもそも景色がぼやぼやして平坦なものになるので今いる場所に関してなんの手掛かりも得られないのである。

しかし、眼鏡を外すことがいいと思える側面もある。それは人見知りをしなくなるということだ。眼鏡をはずしているの時の目の前の現実は、上記の通りとても認識がし辛い。現実感がないのだ。例えるならRPGの中にいるような感覚。またはお酒に酔っているときや、夢の中にいるときが近いかもしれない。本物の現実にいるという認識が薄れているため、その現実に即している自分の圧力のような、フィルターのようなものが解けて、それが人見知りであれば、それが解消されるというわけだ。また顔がわからないというのも大きい。相手の表情というノイズを遮断して行う会話はとてもスムーズにいく。

いろいろと不便ではあるもの、この遊びは面白い。わたしはどんな場所でもおぼろげになれる。

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