2024.12 言語を教えるということは
知り合いに聞いた話。
「日本語学校でイベントができなくなってきている。」
日本語学校では季節の行事がある。
私が担当しただけでも
節分、七夕、ハロウィン、遠足(校外学習)など。
「茶道体験」「書道体験」もあった。
「先生に年賀状を書いてみよう」というのも。(縦書きの練習にもなる)
どれも学生は楽しそうにやっていた。
日本だったら幼稚園や小学校でやるような行事ごとである。
ただ、幼稚園や小学校で取り入れているということは、単なる遊びではない。
発達や文化継承に必要だからやっているんだと思う。
日本語学校でも、もちろんこれらを「勉強」としてやっている。
結果的に「息抜き」の要素が含まれるとしても、きちんと意味や由来、語彙を教えた上で活動を行っている。
・・・それができなくなってきているとは???
「Can-do(キャンドゥ)に結び付けられないと許可されない」
「その行事をやって何ができるようになるのか、学校の上層部に説明できないといけない」
目がテンになった。
その前に「キャンドゥ」の話をしないといけない。
100均のお店ではない。
日本語学校は今、システムが変わる過渡期にいる。
ざっくりいうと
●日本語学校の所管が文化庁から文科省に変わった。
●日本語学校の先生(※細かく言うと例外はある)は国家資格になる。
●教育指導要領のような「教え方の方向性」も変わる。
そこで出てきたのが「キャンドゥ」である。
これはざっくりいうと、語学教育の国際(欧米)基準に合わせよう、みたいな動きだ。めちゃくちゃざっくり言ってます。
今までの日本語学校の教育は、(私の世代が受けた英語教育のような)いわゆる文法偏重教育というきらいがあった。
これからは「コミュニケーションできる」ことを目指そうじゃないか、という流れである。ここもめちゃくちゃざっくり言ってます。がんばってた学校は昔からがんばってたと思う!!
そこで重要なのが ●できること=Can-do。
例えば…飛行機などの切符を見て出発時刻がわかる、買い物で店員と簡単なやりとりができる、ホテルのスタッフと簡単なやりとりができる…など。
※JF生活日本語Can-doを参考に、書き直しています。
まず言い方(文法)を覚えてから練習するのではなく、何かが「できる」ようになるために「言い方(文法)」を勉強しましょう…
という心持ちで授業をしようということだと思っている。
なので「今日はこれこれのことができるようになります」と明示してから授業に入る。
×「今日は禁止形(~するな)を覚えましょう」
〇「それをすることがぜったいダメなとき、たばこダメです、お酒ダメです、電話ダメです。ぜったいしないでください。どうやって日本語で言うか勉強しましょう」
的なかんじです。雰囲気としてなんとなくわかっていただければ・・・。
この「コミュニケーションが大事」という流れ、ざっくりいえば私も賛成だ。
この基準に合わない学校は「日本語学校」としてやっていくことができなくなるらしい。
ということで全国の日本語学校は「キャンドゥ」への対応を迫られている。
「キャンドゥ」を念頭に置いて授業を組み立てなければならない。
単に「文法を覚えさせる」「試験問題が解けるようになる」だけではダメなのだ。
その「キャンドゥ」の極みがこれなのだろうか。。。
「そんな行事をやったところで、何ができるようになるんですか」
「どのキャンドゥに合致するんですか」
語学って・・・。
言語って
何で勉強するんだっけ。
何を勉強するんだっけ。
言語には必ず文化的背景がある。
言語はコミュニティの中でしか生まれない。
私はエクリチュールとか記号論とか難しいことはわからないが
「言語」は、そのコミュニティが「どうやって世界を見ているか」を表現しているものだと思っている。
だから文化と言語は不可分である。
もしかしたら、言語も文化といえるのかもしれない(学問的な話ではなく直観です)。
例えば節分。
春のあの「節分」とはそもそもどういうことか(二十四節など)。
鬼とは何か。神なのか、悪いものなのか。
日本で暮らしてきた人たちにとって「悪いもの」とは何であったか。
なぜ投げるが大豆なのか。
この行事のおおもとはどこから来たのか。あるいはその国独自のものなのか。
自分の国に似た考え方はあるか。あるいは全然違うのか…。
これら全部は、伝えられないし理解できないかもしれないが、この中に、日本人(日本で暮らしていた人たち)の世界観の一端が見えると思う。そして、中国文化との関わりも感じられると思う。
その世界観の一端が「言語」という形で表出されているのである。
「節分」のことを習い、鬼の絵をかいてそれに豆を投げても、日本語が上達するわけではない。
でもそんな言葉の上達よりもっと大事な、めちゃくちゃ大事なことがここにはある。
ちょっと言い過ぎた。
訂正。
「何ができるようになるか?」それも大事だ。
でも、それじゃなくても大事なことはいっぱいある。
それでも行事がやりたいので、全部の行事をなんとか「キャンドゥ」に結び付けているのだという。逆にそれもすごいと思えてきた。
人文知の難しいところは「評価・数値化しにくい」ことにある。
というかほとんど無理である。
節分で興味を持った学生が最終的に「日本の行事の研究に進んだ」とかだったら、わかりやすいが、そうなることはほぼない。
実際、日本を離れたら忘れてしまう学生がほとんどだろう。
でもそれでも、1000人に1人くらい「面白い!」と思って、なにがしかの研究が始まるかもしれない。
あるいは、節分を体験した学生が国へ帰って、いつか子どもたちに「日本にはこんな行事があったよ」と話してくれるかもしれない。
それを聞いた子が日本のアニメを見たりして、日本や日本語に興味を持つかもしれない。
その因果関係は証明不可能である。
・・・
うまく言えないのだが、
これが許されなくなるなら、いったい日本語学校で日本語を教えるって何だろうと私は思う。
言語教育の根幹は文化継承だというのが私の本音だ。
だから最悪学生が、
日本語話せるようにならなくても
すぐ帰国して日本語を使わなくなっても、
日本と日本語の概念というか真髄というか、
「変な言語だったなあ」でもなんでもいいのだが、
持って帰ってくれて、
それでその人が誰にもそれを話さなかったとしても
ぜったい意味はあると思うんです。
そうじゃなかったら、文系の教育に関わるなんてやってられない。
そんなことを話した。
知り合いは・・・単に困っていた。
ですよね・・・。
でも。
それが文系の喜びってもんじゃないのかな。
とゲンロン友の会会員の私は思ったのでした。
日本語教育方針の理解について細かいところが間違っていると思います。すみません…。
勤務校ではこうならないことを祈ります。