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多様性の意味

多様性・ダイバーシティ。

2021年の集大成として、改めて強く印象に残るこの言葉。
オリンピック・パラリンピックの開会式を思い出してもこれでもか、というくらいに登場していたように思う。

ここ数年で随分と聞くようになったこの言葉だが、日本ではまだまだ多くは働き方改革の一つのパーツとして登場している感は否めない。

働き方の文脈の中では、介護や子育て世代の社員に対する柔軟な働き方を認める組織や制度だったり、人手不足が著しい現代の日本において性別や年齢、国籍・人種、障害などの違いを問わずに”多様な人を認め活用すること”を指す。

一方で社会的な意味としては、これまた昨今よく聞く”SDGs”の17項目の中でもほぼすべての項目で『すべての人』や『平等』を意識した言葉が選ばれている。

SDGs自体がどんな人であっても平等に扱い、尊重できる社会をつくり続けていこうという目標である。

この言葉を選ぶにあたってもかなりの議論が成されたものだろうと思うのだが、まだまだ一般社会の中では知識としては知っているが、実感としては意識して取り組まなければ社会の目が怖い、といった感覚が正直なところだろう。

理由はどうであれ、企業や個人個人が多様性を意識して取り組むようになれば、結果として多様性のある社会となってよしというのが国としての考えなのだろうが、そもそもなぜ今、多様性が求められているのかを考えてみる。

働き方だけじゃないそれぞれのニーズ

現時点では働き方の部分にフォーカスが当てられているような印象だが、もちろん実態としては生き方そのものに対して多様性を認める動きは徐々に出てきている。

例えばアンケート。LINEなどを使ったWEB上でのアンケートではもはや性別の項目に「男性」「女性」のほかに「その他・未回答」などの項目が追加されるようになった。

これはつまり、企業がマーケティングにおいて生物学的な性別だけでカテゴリー分けをしない、ということ。

本音を言えば、企業もしては性別や年代における傾向値を測りたいところだが、時代の流れ的に男女以外の選択肢を”設けなければならない”とやむを得ず項目を設けている企業も多いかもしれない。

だが、消費者のニーズを探るという意味において、マーケターは消費者の感覚というのを敏感に感じ取る必要がある。

ある種、「その他・未回答」の割合がとれぐらいなのか、増加傾向にあるのかというのも重要でこれが増加していけばいくほど、これまでの正しいものとされてきた性年代別の枠組みだけでは多様化するニーズに対応できなくなってくる予兆と言ってもいいのかもしれない。

大衆向けの効率が悪くなる

これまでのマーケティングでは、分母が大きくなるカテゴリーに対するアプローチが最も効率的でコスパの高い手法であった。

商品は一部の特殊なニーズを満たすものではなく、多くの人が好むようなものを大量に作る。
広告で言えばテレビCMや新聞・雑誌広告。マスに向けて発信をすることで多くの需要を獲得できていた。

各個人のニーズが多様化する現代においては、この手法が必ずしもセオリーではなくなってきている。
多様化により分母がどんどん細分化されてくるから、これまでと同じアプローチでは届く層が必然的に減ってきてしまう。

商品はこれまでと同じように大量に作っていては廃棄が増えてしまうから量を調整すると、今度は少なく作るため費用割合が上昇する。
さらに、多様化するニーズに応えるために品目を増やす必要が出てくると、工場にとっては非効率となりそこでもまたコストが増えることになる。

少品種多量から多品種少量への転換期となってきている今、これまでの大衆に向けた商品やサービスはむしろ効率が悪くなってきており、よりニッチなニーズに応えられるかが企業の腕の見せどころにもなってきている。

共通カリキュラムの授業

そもそもこれまではなぜニーズが多様化していなかったのか。

さまざまな要因があるのだろうが、義務教育における共通カリキュラムの授業もその要因のひとつではないだろうか。

小学校に入学するとともに、どんな家庭の子供でも同じ学校の同じ教室で同じ授業を受ける。

集団生活というものを学ぶ。
この集団の中では、集団から外れないように周りの人と歩幅を合わせることが求められる。

子どもたちの中で周りと違うことが悪で、みんなと同じことが正義になる。

高度経済成長期の日本においては、教育においても同じものを作っていくことの方が効率よく同じ価値観の人間を生み出すことができた

元々はお国の為に働く軍人を育てるための仕組みだったなどとも言われるこの日本の教育が、日本の多様化が遅れる1番の理由なのかもしれない。

きっかけはインターネット

そんな中で、ようやく日本でも幸せの形や生きる目的は人それぞれ違うということに気がついてきた。

どうしてこれに気がつけたのかと言えば、やはりインターネットの影響が大きいのではないかと思う。

みんながそれぞれ、世界中のあらゆる情報に簡単にアクセスすることが出来るようになった。

ここで、世界と自分たちの違いをリアルタイムで知ることになる。

文化の違い、価値観の違い。

テレビや雑誌を通して知ってはいたけれど、それぞれの環境や歴史的背景の違いからくるものだと、どこか異世界の話のように受け流していた。

インターネットの出現により、それぞれの国の中でもいろんな価値観があり、それをあたりまえのように許容する社会を目の当たりにした日本人はそこでようやく世界との違いに気づく。

世界はすでにあらゆるものを許容したうえで、未来のために前に進もうとしていた。

スマホの普及がよりインターネットの浸透を加速させ、多くの日本に住む人々が「自分らしく」生きて良いことを知る。

まだまだそんなスタートラインの状況だと思うが、日本では若い世代から急速に多様性に重きをおく文化が浸透しつつあるように感じる。

管理社会からの卒業

上記でも既にわかるように、教育や仕事において多様性に対応しようとすると、これまでのようなやり方では立ち行かなくなることは目に見えている。

極端かもしれないが、ひとつの教室で英語を勉強する子がいれば、算数を勉強する子もいる。更には、絵を描いている子までいてもいいということ。
仕事で言えば午前中だけしか働かない人がいたり、外国に住みながらリモートで働く人もいる。

そんな人々が共存する世界。

何度も言うが、従来どおりの日本型の管理は全くと行っていいほど機能しないだろう。

子供たちの成績の良し悪し、社員の評価など基準がバラバラな中ではどう判断をすればいいのかが難しい。

つまり、管理する側はめんどくさい、というか「できない」に近い。

それなのに必死にどうにか管理しようとしている、というのが日本の現状。

いっそのこと管理することを諦めるのが潔いし、最適解のひとつなのだろうと思うが、急に一足飛びでそんな変化をできるのはごくわずかの先進的な企業や自治体だけ。

急な変化に対応できない人が大多数の現状で、それをやれというのは酷な話なのかもしれない。

人材の流動化とビジネスの短命化

しかし、若い世代を中心にじわじわとその流れは確実に来ているというのもヒシヒシと感じる。

特に企業は、優秀な人材の確保やビジネスに関わる話なので、対応できるかどうかは死活問題にもなり得る。

そんな中で世の中の流れだからとその背景を考えずに安易に考えていては、企業として存続すら危ぶまれる。

自社の仕事が本業であることが前提での制度構築や実質副業をするにはプライベートを犠牲にするしかない形だけの”副業解禁”。

制度を構築しただけで満足している経営陣と実態のない”副業制度”に意味はなく、それに気づて会社を去っていく優秀な人材。

企業が多様性に対応していくのは、社会的責任とかそんなものではなく、自社の存続のための手段として捉えなければならない。

それくらい、企業は多様化について真剣に向き合い、自分たちがどうあるべきかを考えなければ簡単に淘汰されていってしまうだろう。

幸せの形が人の数だけある中で、いかに企業がそれぞれに対応できるかというのは今後、企業が生き残っていけるかを大きく左右する。

だが、残念ながらここに危機感を覚えている企業はほんの一握りもいない現実。

いよいよ、大企業が淘汰されていく時代が近づいてきているのかもしれない。

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