0003大前緋色雲車両3分の1_72

日々と写真,1989~1991年

この頃なりに、真面目に撮っていたと思う。

JR吾妻線大前駅。初めてのリバーサルフィルム。確か富士の、感度100のポジ。

JR吾妻線大前駅。

JR高山本線。

奈良市平城宮址。

福岡県北九州市音戸瀬戸。

奈良市内。その日、奈良には40年ぶりという大雪が降った。

奈良市般若寺。卒論を書き終えた私は、奈良のあちこちを歩いたり、旅行に出たりしていた。

奈良市豆比古神社。

金沢市東茶屋街。

金沢市武家屋敷。

兵庫県城崎温泉。

兵庫県山陰本線。

広島県宮島連絡船。

山口県萩市。

山口県萩市。

実はこの時、まだ就職が決まっていなかった。バブル真っ盛りの頃で、就職なんて何とでもなる、と思っていた。公務員試験を3つ受けて、3つとも合格したけれど、初めの2件は辞退した。本命は神奈川県職員だったからだ。で、1989年の11月に合格者を集めての健康診断があったのだけれど、それっきり神奈川県庁からは何の音沙汰も無かった。まあ、流れちゃうならそれでもいいや、秋葉原でアルバイトして、社員割引でパソコン(PC9801RA)を買おうとか思っていた。

3月21日。その日、私は飲み会で帰りが遅かった。まだ留守番電話が高価で学生には手が出なかった時代。携帯電話などましてやあろうはずもない。無人のアパートに電話が鳴り響いていた(らしい)。神奈川県人事課T氏。T氏は万策尽きて、私の実家(千葉)に電話を掛けたらしい。その電話というのが「飯島さん、辞退されてないですよねえ?」。どうやら私の書類か何かが机の間にでも落っこちていたのだろう。慌てて入庁式の日時等を伝えてきたのだ。私は横浜市内の宿舎に住むことを希望していたが、当然、そんなものは「取り損ね」られていた。それで「最大限通勤には配慮するので、しばらく千葉の実家から通勤して欲しい」。と。そして私は、横浜駅西口にある県政総合センターの「横浜出納事務所」というところに配属された。

ここがまたとんでもないところだった。何しろ「経理書類の審査」をして、私が判子を押して、上司が判子を押すと、県機関(私の担当は全部学校、主に県立高校)の支払いがなされる・・・という仕組みさえよく分からず、先輩職員に言われるままに書類をチェックして(といっても数字があっているかどうかとか転記ミスがないかどうかくらいのことしかわからず、条例とか規則とかに反していないかまでなんて分かるはずも無く)、ただ、機械的に仕事をこなしていた。それがまた大量の仕事量で、毎日夜10時まで職場にのこり、終電で帰った日もあった。仕事が遅いだけではなく、「訳の分からない書類の審査」というのがもの凄くストレスで、何しろ県立高校のベテラン事務職員を「指導」する立場になってしまったのだ。私はストレスのあまり足に蕁麻疹が出た。
公務員というのは5時に帰れるものだと信じていた「私って、ほんと、バカ」。

群馬県桐生市上毛電鉄新桐生駅。

当時の横浜出納事務所は残業は多かったが、休日出勤だけはなかった、というより、している人もいたようだけれど、私には限界だった。まだ完全週休二日制ではなく、隔週週休二日制、法定労働時間が週44時間だった頃。土曜に残業をすることはあったけれど、日曜は絶対に休むことにした。
千葉に帰って来れたことを幸いに、実家の車を乗り回してつくばや銚子に行ったり、あるいは、高校の同級生を誘って上毛電鉄などに乗りに行ったりしていた。

青森県JR五能線深浦駅。

翌年になっても相変わらず仕事はきつかったが、5月の連休に青森に行った。

青森県JR五能線風合瀬。

青森県JR五能線風合瀬駅。

青森県。

岩手県北上市。イタリアンレストラン。このイタリアンレストランは「タベーナ」という名前で、手頃な値段で美味しかったので好きだったのだけれど、数年して取り壊されて、パチンコ屋になってしまった。

宮城県登米市JR気仙沼線陸前豊里駅。

宮城県気仙沼市。鹿折唐桑「折石」。折石というのは、画面左側の縦長の細長い石で、もともとはもっと長かったそうなのだが、明治期にこの地を襲った津波で折れてしまったのだという……その場所に2011年3月11日、再び津波が襲うことなど、この頃は想像もしなかった。

岩手県花巻市JR花巻駅。

東北本線。

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