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美に対する視点と寛容 後
○刀剣における疵の考え方 ―時代による変化―
刀の疵が、とくに刃切れなどがうるさく云々されるようになったのは、実用を離れた泰平の御代からであるということを我々はもう一度改めて認識しなければならない。侍見栄(さむらいみえ)の第一の象徴といっていいだろう。
現今の刀剣鑑賞の常識はそこから出発したものをそのまま継承しているのである。そしてその鑑賞態度は極言すれば専ら地鉄、刃文の沸え匂い追求に終始している。
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武士が身命を賭した闘戦の為に用いる道具である刀剣の実用上の吟味という肝要なものは閑却して、代りに刃切れ等を忌避することによって守られていると思いこんでいるのが、現今の一般的な刀剣愛好家の常識ではないか。実は大きな錯誤の上の安坐である。
現在、刀剣風俗や実戦時の用不用に立脚して、刀剣の研究を見直している人など寡聞にして聞かない。その方面の閑却は世情の要求でもあるから当然である。時代による見方、考え方の変化の典型といってよい。
以上書いてくると、筆者は刀の疵など頓着要らぬ。要は斬れればいいのだと説いているように早合点されるかも知れない。刀の疵はキズであることに変りはない。無いにこしたことはないにきまっている。しかし実際には恐れる必要がない毛疵のごとき刃切れについて、刀の生命を左右する程に大きくマイナス感を誰も彼もが抱くということは如何なものかという話である。
○ 疵に対する許容度 ―甲冑類との比較―
刀剣はなぜこんなにも疵に対して許容性がないのか。その主な理由については既に語ってきたが、もうひとつ大きな理由は歴史の貴重な遺物でありながら「歴史」という衣裳を纏うことを嫌うところにあると思える。これはまわりくどい表現だが、刀を愛好する人は意外にも歴史には疎いということである。むろん相対的な話であるが、刀剣にはその一振一振に隠された大きな歴史がある。微細な履歴がわかるわけではないが、その刀なりに生まれ来たった時代の記憶を厖大に秘めてきているわけだ。
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歴史に興味があるとその刀の背景、辺りの背景や風俗までが、刀身より浮んでくるはずである。そこからめまぐるしく変転した歴史を回顧し、再び刀身を観る。すると度重なる戦乱を経て来た鎌倉期の太刀などが健体である事自体、不自然、不可思議であることに思いが至る。
ここでよい比較対照になるのが甲冑である。
鎌倉時代の刀剣類は世上に数多あるが、鎌倉時代の甲冑となると、刀剣類のそれとは比較にならない程数少ない。かりに存在していても生ぶのまま完備しているものは皆無といってよい。
兜や大袖、胴などがバラバラになって保存されているか、一人前にみえても時代違いのものを取り合わせているのが殆どである、文化財などの指定をうけていても、甲冑を構成する部品はもとのままではなく、極端になると半分以上が補修等は勿論、昔年からの善意悪意とりまぜの作為によって中味が入れ替わってしまっているものが少なくないと聞く。要するに美術品としては欠点だらけなのだ。たとえば平安時代の作品といっても通用するのは兜だけ、それも兜鉢だけであってあとは後世の加修甚だしい。江戸や現代の部品が古顔をして秘かに入りこんでいる。こんな例をあげずとも一般においては甲冑は大破していようが、焼けていようが室町以前であれば、存在だけでも有難がる。
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こうして見てくると、刀剣に対する視線が厳しすぎるのが、不思議な気がするのは筆者だけではあるまい。
刀の疵のこと、特に刃切れに言及して、実用上何等問題ないことを書いてきた。要は鑑賞、感覚上の問題にすぎない。若年の頃、傾(かぶ)き者のはしりを演じ、また実戦上では何度も手を下して高名した戦国桃山の武将、前田利家が功成ってから愛重した刀が、「丈木」という七ヶ所も刃切れのある刀(無銘、はじめ三池典太、盛景、更に金行と個名が変わる)であることひとつだけでもこのことは信用できるのである。
先に鑑賞上云々といったが、そもそも刀が「美術刀剣」と美称されること自体本当は正しくないのである。本来、人を殺す凶器である筈の「刀剣」を美術品として鑑(み)られる現代の我々は実に幸福である。いわばお遊びなのだ。
次回より「名物丈木(こう)」抄編をご紹介します。
考えてみたらこちらの続きを掲載しておりませんでした、
「ナイショの刀たち」また更新します。
美に対する視点と寛容 初回はこちら
前回はこちら。
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