見出し画像

『名物丈木 五』 -利家vs家康-

 丈木は元北国の猛将長景連の侃刀であった。景連を討伐した一族長連龍の戦利品となり、更にその寄親ともいうべき前田利家に献上された。利家の立身により名物となり、前田家のその後の安泰を得て現代まで保存されるに至った。いかに鋭利を謳われたとしても利家の手に入ることがなければ、おそらく戦場の消耗品として湮滅、名物どころか当今の現存もむつかしかったのではないかと思われる。

 畢竟するに丈木は利家に愛重されることにより、大多数の刀剣のもつ変転消滅の運命を辿ることなく、その存在を史迹に刻むことを得た。また利家の死後はその魂代のごとき扱いを得るに至った。いわば丈は傑出した戦国武将の類たぐいまれな精神を今に伝える貴重な遺品である。

 ——この丈木が転回する歴史の大舞台に不朽の名を遺すのは、秀吉死後、天下の風雲俄かに急を告げたときである。

萌葱糸威二枚胴 慶長元年(一五九六)八月十二日に召抱えられた津田重久が拝領したもの。津田家は代々管領細川家に仕えていたが、重久の時足利義昭に属し、のちの明智光秀、秀吉にそれぞれ仕えて九州征伐以後関白秀次の御馬頭を務め、文禄四年(一五九五)秀次没後、利長に召し出された。大聖寺攻撃では首一級を討取り、さらに鉄砲で大股を負傷しながらも落馬せずに戦った。この功績により新参者ながら大聖寺城番を務め、知行五千五百石を禄した。この胴は本伊予札を萌葱糸で威したもので全体に金箔を押すなど、桃山時代の特徴をよくあらわしている。 (寄託調査品)


 周知のごとく、秀吉死後における家康の専横―豊臣家無視―は目に余るものがあった。秀吉から豊臣の天下と遺孤秀頼を託された利家は、よく補弼の任を果していたが、老獪な家康の野望黙視しがたく、ついに徳川打倒の行動を採らざるを得ない状況になってしまった。

『前田創業記』に″公(利家)及び景勝(上杉)、輝元(毛利)、五奉行胥議(しょぎ)して……大権現(家康)政道に私心あるの十三条を責誚せしむ……若し大権現異変あらば……襲攻せんと欲す。因って伏見大坂の諸大名、刃を磨き火縄を薫じて敵の前にあるが如し″とある。

 京大坂間はいまだ流血こそみないが一気に戦争状態になってしまったのである。この一触即発の危機は、細川忠興、加藤清正、浅野長政、幸長父子といった親前田派の有力大名の奔走によって回避されることになる。利家も家康の態度が改まるなら、ここで大波瀾を起すより和平に如かずとみたのである。これは何よりも秀吉が死の直前に遺命として五大老たちに申し含めた温順主義を遵守することになる。既にこの頃利家は不治の病に冒されていたが、和平成立の証にまず利家の方から伏見の家康を訪問することになった。家康を伏見城から退去させ、向島に転居することを勧告するのが主目的であった。しかし利家側は奸譎な家康が和解の実を示して素直に向島に移るとは考えず、利家自身もまず間違いなく伏見で暗殺されるに違いないと覚悟していた。

 豊家の大黒柱である利家を亡きものにすれば、あとは石田三成以下の小物ばかり、家康の危惧するものは皆無となる。


軍扇(前田利家所用)
冨田治部左衛門景政が利家から拝領したもの。この扇の表には日に十二支、裏には月に十二曜が
描かれている。

 慶長四年二月二十九日、利家は死を決して大坂を立ち伏見に向ったが、その前夜子息の肥前守利長を呼び懸命に諭すところがあった。このとき利長は自分も父利家に同道、伏見に赴くといって厳しく叱責されるのである。

 利家は言う。自分はあえて家康に斬られにゆく。わしが殺されたその時こそ、汝は人数を揃え一気に家康を殺せ。弔合戦をする覚悟と準備をしなくてどうするのか……。ここでいよいよ丈木が登場する。利家は丈木の刀を抜き放ち、刃を仔細にながめ、声高らかに、万一のことあらばこの刀で家康めを斬り放してくれよう、と叫ぶのである。病重くとも若年よりの勇猛心は衰えてはいない。鋭気満々の気塊である。『菅利家鄕語話』から少し引用する。

扨丈木の御腰物を御抜、刃を御覧候て、内府に対面候て、事あらば此刀を以て一刀切るべし、あたりたる所は何にても放れ可申候と、肥前様(利長)へ気を御付…

『菅利家鄕語話』

 ""あたりたる所は何にても放れ申すべく""――というのは、利家の丈木に対する信頼、刃味における確信である。その背後には長景連や長達龍の所佩時の使用実績だけでなく、利家自身も丈木を試刀し、自信を深めた経験の裏打がある。この時代、試刀は必ず自身が実践し、納得した上でおのが佩刀としたからである。

 それにしてもこの言葉が、秀吉死後風雲急を告げる大坂において、豊臣家の代理人たる利家の口から発せられたという事実は、丈木の刀剣としての悽みであり、丈木そのものに何物にも代え難い歴史的意義を付与している。この頃の武人の愛刀は、それをもって身を永らえるためのものではなかった。〝死に道具″ である。福岡藩祖黒田長政が終りに臨み息忠之に与えた遺言の中に――刀脇指ハ、これは我死道具そと心得たるかよく候、是ニて我命を生へきと思ヘハ、あるひハをくれをも取、あるひハ平生之の身のつゝしミもなき様ニ成候―― というくだりがありこの間の事情を明快に指摘している。利家が死病にとりつかれながら、なお家康を対手に最期の死に狂いを果そうとした心中は、実に壮烈悲愴という他ない。その死に場に友として選んだのが丈木であったということは、丈木が当時決して数少くなかったであろう利家蔵刀中、第一の愛重措くあたわざる刀剣であったことを証拠づける。利家の家康邸訪間に際し、丈木を奉じその身辺を警護したのは、最も信任に厚かった家臣村井勘十郎であった。

 利家の家康邸訪問は、案に相違してつつがなく終わった。そして今度は家康が利家を訪問する運びとなった。しかし、既に利家は重病の床にあった。


(続)

 刀剣一振りが、ここまで歴史記述に登場することはそうありません。前田家ならではの奇跡といえるでしょう。

——「もちものたち」集めてみました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?