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『典厩割国宗の場合』 -名物刀剣における伝承の発掘と考察- ①

今回からは「典厩割国宗」という刀の名について、確とした資料を元に具体的に展開してまいります。本来一体化して研究されるべき歴史と刀は今ほとんど分断されている中ですが——。


一、はじめに

 名物刀剣―――と一口にいっても、童子切安綱とか池田の大包平といった天下に隠れない大名物から、由緒を誇る大名家に永らく秘蔵されてきたいわゆる御家名物まで、いろいろあってその範囲は広い。

 名物刀剣の名物たるゆえんは、いずれも抜群の切れ味が大概の基本条件になっており、幾多の名将、智将の手を経てゆくうち、種々の神威やさまざまな物語伝承を生んでゆく。 それらは今日からみれば、非科学的・非歴史的で、信じがたいものが殆どであるが、刀に託された人間の夢や願望が、年経りてゆくうちにそうさせていったのであろう。しかし、それらの物語や伝承の根源には必ずその根幹となるある真実がある筈であり、その背後には武士たちの切実な心意気―精神が蔵されているにちがいない。名物刀にまつわる史話というものは、確かな証拠史料も少なく、伝承・伝聞が殆どで、存在するのは御本尊の刀だけという状況であるから、史的研究として成立させるのは困難で、それら物語が単なるおはなしとして紹介されたことはあっても、歴史的に考証、研究されたことは余りないように思える。

刀剣の背後にひそみかくれた史話伝承の、歴史的研究というものも、分野としてもう少し開拓されてもいいのではないだろうか。このたび私が拙いながら表題のようなものを書こうと思い立った動機もここにある。

さて、私がとりあげるのは、名物刀とは申しても大名物にあらず、たまたま縁有って入手した佐竹家の御家名物で、俗に「典厩割」といわれる備前三郎国宗の刀である。この刀はその号名に由来するごとく、上杉謙信の佩刀で、川中島合戦の際、武田信玄の弟典厩信繁を討ちとったとされている。本稿では、この刀に従来からまつわる伝承を考察し、また発掘できる史料があれば検討し、その伝承の実体と、刀に賭した武士の精神というようなものをあきらかにしてみたいと思う。


二、典厩割国宗の伝承と謎

図一  典厩割国宗の刀姿

重要刀剣図譜より

 この刀は秋田藩佐竹家累代の宝刀として、藩政期を通じ邸庫深く蔵するところであった。が、近代、佐竹家の息女が他家へ嫁するに際し、その父君が引出物のような形で与えられたので佐竹の家から姿を消した。 そう遠くない時代の話なので詳述はさけるが、そのためもあって(理由はもうひとつ考えられる後述〝典割不称の経緯"参照) 地元では焼失したように思っている人もいる。明治以降、次にのべるように"名物刀"として刀剣関係誌に典厩割国宗(以下、単に典厩割と記す)を紹介する人々があったが、佐竹の"秘宝"であったために、実物を観た人はなかったらしいが、昭和五十七年冬、第二十九回重要刀剣に指定され世に出た。 典厩割の刀姿、作域については、右の指定に係って記された説明が簡にして要を得ているので、その要点を抄出する。

◎法量 長さ六九.八糎 (二尺三寸強)
反り ・九糎
元幅二・九糎 先幅二・一五糎
◎形状 鎬造、庵棟、大磨上げながらも反り深く、 平肉豊かに、中鋒僅かにのびごころとなる。
◎鍛 板目肌、杢交じり、地沸つき、乱れ映り立つ。
◎刃文 丁子乱れに互の目、尖り刃交じり、処々腰の開くところと逆がかるところあり、足・葉よく入り、小沸つき、物打より帽子にかけては沸がつよい。
◎帽子 乱れ込んで先尖りごころに返る。
◎茎 大磨上げ、先切り、鑢目勝手下り、目釘孔三、無銘。

説明
国宗は直宗派の刀工で備前三郎と称している。 …....のちに相州鎌倉に移住し、相州鍛冶の開拓者の一人になったと伝える。初代は丁子主調の華やかな出来を示し、二代は ・・・おとなしい出来である。この刀は佐竹家に伝来したもので典厩割国宗の号があり... 一般に観る国宗に比して処々腰開きの乱れと尖り刃の交じる点がやや異風であるが、重要美術品指定の初代有銘の太刀で本作に相通ずる出来のものが存在し、所伝は十分に首肯されるものである。 地刃が健全に保存された佳品である。

右の説明通り、平肉たっぷり、見事なほどの地刃健全ぶりで、 備前三郎国宗の欠点的特徴である刃染もない。

この典厩割を近代の刀剣界に最初に紹介したのは松平頼平翁であった。 『刀剣会誌(註2)』の第四十七号、"刀剣志料・名刀記"の第十三として次のようにある。

典厩割
一、〔秋田沿革史大成〕 此時(○永禄七年三月上杉謙信、北条氏康ト対陣矢合/)、 謙信は佐竹義重が早速の加勢を出して殊の他喜び自ら其陣へ行向ひて厚く謝し給ひ尚帯したる備前三郎國宗の太刀を進せらる此太刀は三尺(ママ)三寸餘あり謙信秘蔵の刀川中島にて合戦のとき典厩信繁を切りし故典厩割と名付けられたる刀なり今佐竹家に持伝へたり○長山日光ノ記二此太刀今ハ二尺三寸 分二摺り上ヶ金作リノ太刀ニテ什物/内ナリト云フ) (註3)

 左の記事が典厩割伝承の核である。以後方々の名刀談義に転記されるようになり、その代表が高瀬羽皇の『新古刀剣談』(註4)である。内容は右の松平頼平翁の名刀記とさして変らないので省略するが、高瀬氏の著作により典厩割も、他の名物刀剣と共に、 刀剣界のみならず、世の刀剣歴史趣味家の間に、その名を識られるようになっていった。

 ——私がこの典割に関する伝承記事を読んでまず感じたのは、謙信が川中島でこの刀でもって本当に武田信繁を斬ったのか、という素朴な疑問であった。そしてその疑問を解くべく、 佐竹家の刀剣史料を調べてゆくうち、ひとつの謎にぶつかった。それは佐竹家では、藩政期を通じ”典厩割"という号名を表立ってとなえていなかったということである。 まことに意外で不審な謎といっていいが、今回、幸いにもその謎を解くことを得た。 実は典厩割不称の裏に、ある政治的事情に絡んだ武将の意地と矜りが秘められていたのである。 同時に別号二つとそれに伴う伝承記録も判明した。 そこでまず典厩割に関する部分の川中島戦を再考し、佐竹家における右刀の記録上の扱いをのべ、本刀にまつわる伝承の史的実際像をあきらかにしたい。


1秋田県立図書館佐藤女史談。
2 刀剣会本部刊 明治三十七年筆者蔵。
3後述 「佐竹家における典厩割不称の経緯」参照。
4 嵩山房刊 大正九年。

本当に、新刀とみまごうくらい健全な刀です!
刀を微細に見、さらにその奥の歴史に想いを馳せることは簡単なようで難しいですよね。橋渡しになれば幸いです。
続きます。よければ❤️を押していただけると大変うれしいです。


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