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小説|眠り・水甕・洞窟・プール葬の夕暮れ


 眠り

 その夏、もっとも激しい雨が降った日。
 ある土曜日の午後。
 夏穂さんがプールで泳いでいる間、雨が降っていた。雨のなか、街では人もクルマもみんな立ち止まって眠っていた。ほんとうに皆、動くのを止めて眠っていたのだ。
 そのことを夏穂さんとわたしだけが知っている。
 夏穂さんとわたしだけは目を覚ましていた。
 空調の効いた屋内プールの水の中で(もしくはプールサイドで)、泳いだり、歩いたりして過ごしていた。歩いていたのはもっぱらわたしの方だ。夏穂さんはプールを訪れた利用客で、わたしはプールの監視員をしていた。
 その時期、毎週土曜日の混雑といえば、平日と同じ場所とは思えない程なのだが……。どういう訳かその週の土曜日は、朝から夏穂さん以外の客が一人も現われなかった。
 朝一番。開館からしばらくして、紺色の水着を着た夏穂さんが更衣室を出てきた。夏穂さんとわたしは軽く会釈を交わした。そして準備運動をし、静かに水に入っていく姿を見守っていた。外では雷鳴が響いていた。窓を叩く雨がわたしのいるプールサイドから見えた。
 気がつくと、夏穂さんが手前のコースの真ん中辺りで立ち止まり、こっちを見ていた。ねぇ、気づいている? 夏穂さんが云った。今、目を覚ましているのは二人だけよ。どういうことですか。ここに来るときに見てきたの。外は皆、屋根のあるところに固まって眠っているのよ。
 思ってもない告白にわたしはとても驚いた。でも、夏穂さんが云うならそれも良いなと思った。



 水甕

 人通りのほとんどない夜の通りを歩いていた。
 雨は上がっていた。目の前の大きな水たまりに、古代の神殿が映っていた。繁華街。それはもちろん古代の神殿などではなく、うわべだけを真似た遊興施設の建物なのだが。それを見ている今、夏穂さんと並んで歩いているという事実が、風景に特別な趣のようなものを与えていた。
 お好み焼き屋から出てきて、駅とは反対の方向に歩いていく。この時間、電車はとうに終電を過ぎている。時折、国道をタクシーが通り過ぎていく。
 神殿のレプリカの前で立ち止まった。
 夏穂さんがわたしの名を口にした。いえ、何でもないんです。ただちょっと、飲み物だけ買いたいなと。道路を渡った反対側には、コンビニエンスストアの明かりが灯っている。
 もっと良いものがあるよ。
 言って、夏穂さんは水たまりを踏んで走った。放置された自転車の列の向こう。立ち並んだ石柱の合間に、紺碧の水を湛えた水甕が揺らめいていた。
 早く。閉じちゃう。
 なんだか訳が分からないながら、わたしは夏穂さんの後を追って駆け抜けた。
 美しい月明かりが水面に落ちていた。好きなだけ飲みたまえよ。言って、夏穂さんは笑った。



 洞窟

 ある平日の午後。わたしはプールの仕事だった。その日は利用者の姿は疎らで、夏穂さんの他には、男女合わせて3名。夏穂さん以外はウォーキング・コースの年配客だった。
 だから、さっきまでプールで泳いでいた夏穂さんの姿が見えなくなった時、すぐに気づいた。
 間もなく、夏穂さんは見つかった。彼女はプールサイドのベンチで眠っていた。肩のあたりを軽くタッチすると、がばっと身体を起こした。
「えっ、わたし、そんなに眠っていた?!」
 本気で慌てる夏穂さんを微笑ましく見ていたが、どうも様子が変だ。理由を聞くと、まさか閉館時刻まで眠るとは思わなかった、片付けの邪魔になると思うのですぐに出ていく、と平謝りである。
 まだ正午を少し回ったばかりだと告げると、ぺたんと座りこんだ。
 プールサイドで眠っていて、薄目を開けると窓の外は真っ暗という夢を見ていたらしい。
「だけどその前はね、もっと変な夢だったよ。ここのプールに地下に洞窟があって、床がガラス張りの小屋の下に、二人で手を繋いだ白骨が埋まってるの」
 プールの真下に洞窟があるって、なんか素敵じゃない? 夏穂さんが言った。



 プール葬の夕暮れ

 ガラスの水槽にゆっくり沈んでいくイメージで、夕暮れのプールに身を横たえる。夏穂さんは、そんな時間がたまらなく好きなのだという。
 当然、人間は浮く。浮いてしまうので、何もせずに沈んでいくことはできない。
「それって瞑想みたいなことですか」
「違うよ。透明な棺桶の中に少しずつ埋葬されていくんだよ」
 夏穂さんはマグカップに口をつけた。
 それは瞑想なのでは、と思ったが夏穂さんのイメージを尊重する。
 プールに浮かんで瞑想をしながら、そんな場面を想像するというのと、ほんとにそういうことにする、というのは確かに違いがあるかもしれない。
 梅雨のこの時季、遊戯用のプールにやって来る子どもはまだあまりいない。平日なら尚更。夏穂さんは周りを気にすることなく、思う存分、「埋葬される」ことができる。
 コースしかないガチ勢向けのプールでは、それができない。
 夏穂さんが、職場であるカフェ『木枯らしの詩』から決して近くはない、わたしが働いているプールに通っているのは、遊戯用のプールがお目当てだったのだ。



 あとがき

 スポーツ全般を苦手としているのですが、日々の運動としては走ったり泳いだりしています。
 これはたぶんストレートに村上春樹作品の影響です笑。登場人物が運動を日課にしている描写を読み続けるうちに、気がついたら真似してました。

 お好み焼きにはある種の思い入れがあります。最近は自宅でも、毎週のようにお好み焼きを焼くようになりました。
 好物というよりは、お雑煮ような特別なイベントのものに近い存在です。
 定期的に食べて元気をもらうというか。

 そんなこんなで、よく分からない話をしていますが、今回の4つのショートストーリーはプールとお好み焼きの話というイメージがわたしの中にあります。屋内プールと繁華街のお好み焼き屋さんのイメージが背景にあって書きました。 

 日常のひとコマを切り取るというのは、なかなか難しいものです。
 さらに、そこに不思議成分をちょっとずつ垂らしていく。そんなチャレンジを続けていきたいと思います。

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