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[再録+α]2017年の日記帳から②

小さな美容室のある交差点に立つあなた
紫色のドレスを着た女が文化住宅の二階から現れて
ダンススタジオの看板が褪色したガラス張りの建物に入っていく
ビニールプールに興じる子供たちの声が響いている
ゴムホースの水音を聞き、虹を見たあなたは〈行かなくてはならない〉と云う
壁一面の鏡の前で、ドレスの女が片手に台本を携え
〈私はあなたを愛しています〉と云う
あなたは動かない
地球儀を模したビニールの球体が庭先に転がっている
雨の匂いが漂うと遠くで雷が鳴って、突然、灯りが落ちる
灯りの消えた町角では、女があなたを愛し続け
美容室のソファーに座って、ふたりの少女が雑誌を繰っている

『無題(ビニール)』

(まずは2017年の日記帳から……)

夏になると訪れる、時間が止まったような小さな町の風景が私を惹きつけている。
時計の針がもう二十年は動いていないようだと私は考える。
(けれども実際にはそこまでの年月であるはずはない。丘の上に立った新しい宅地は陽光を受けて白く輝いているし、どこか垢抜けない住人たちも現代の装いをし、最新型の端末を持ち歩いている)

二十年前と云えば、まだまだ終わったばかりの或るひとつの大きな時代の残り香を漂わせていた。
記憶をたぐり寄せていると、懐かしさというよりも〈まるで遠い、異国の風景を眺めているようだ〉という思いがあることに気がつく。

とはいえ私は過渡的な時代の記憶の方をより鮮明なものとして持っているのだけれども。
それでも屈指の繁華街でもあったために、かえって過ぎ去ったはずの時代の空気を濃厚に保存していた或る街、そこに結びつけられている幼少期の記憶は強固だ。

いつ作られたものか想像もつかない(という拭いがたい印象を私に抱かせた)大量の煎餅だけを売る店、壁がすべて鏡張りで天井からシャンデリアが吊り下げられた鞄屋(中二階もあって広く、階段には分厚いカーペットが敷かれている)、乳母車とオルゴールの店、ショーケースが曇っていて中が見えず、吸い込まれたように音が聞こえないテイラー……。

(そういえば繁華街のためか児童向けの駄菓子屋などはなかった。菓子と云えば土産物屋か)
(思えば街中から今とは違う、独特の芳香が漂っていたようだった)
(あれらのどこか酢豚にも似た、味醂のような甘い匂いは何だったのだろう)

丘の上の小さな町では、夕刻、銭湯の行き帰りの人びとが洗面器を携えて歩いているのを目にすることも、通り過ぎた炊事場から甘煮の匂いが漂ってくるということもないのだけれど……。

それが何なのかは判然らなくても、連想を促すようなものが確かにあるような気がしている。

(……2017年の日記帳ここまで)


[解題]

仕事で訪れた地方都市で、生まれ育った下町の風景を思い出していました。
わりと少し前の時代の空気が色濃く残っている町でした。
建物がすっかり入れ替わってしまっても拭い去ることができない何かがあると、先日久しぶりに訪れて実感しました。

ある写真家が町の名前を冠した写真集(町の宣伝ではなく、あくまで芸術的なモチーフとして被写体に選んだもの)を出されていてとても驚きました。
ちょっと覗いてみると、たしかにあの町でした。笑。実を言うとわたしの肌にはあまり合わない町なのですが、とても味のある町であることに変わりはありません。こういうのを愛憎半ばするというのでしょう。

そんな町のことをわたしに思い起こさせた町Bは町Aから少し離れたところにあります。
ぎりぎり同じ川は流れていなかったような気がするのですが、川を伝ってかなり近くまで行くことができます。いえ、地理に弱いので確信はありません。汗。

町Bはどこへ行っても町Aの印象の端っこを捉えていました。
実際に似ているからというよりも、町B(故郷ではない方)がむしろ遠い未来の姿のような気がしたのだと思います。

町Aはなぜか仏具店が多く、商店街を歩けばどこでも線香の香りがしました。
ひょっとすると葬儀屋も多かったのかもしれません。それは日常の中に溶け込んだ死の匂いだったかもしれず、だからあんなに強烈な印象を残しているのかもしれないと今にして思います。

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