【🆗/再掲/R18】　私たち次に生まれたら

　再掲シリーズによく登場する春子さんと安田くんのお話です。『年の差男女大好き妖怪がまたなんかやってる』と解釈いただければ大丈夫です。
　妊娠、出産、性的マイノリティに関わる表現が含まれますが、思ったように書いています。　
　再掲リクエストのご連絡ありがとうございます。紙媒体にも収録するから待っててね〜。

⬇️ この2人

⬇️ 『わだつみの沈黙』おまけシリーズの締め

私たちの赤ちゃん

　市場における春子の絵の価値が、文字通り桁違いになった。

　若い頃はどんなに穏やかな風景でもバリバリ、バチバチ、彼女自身の命の激しさみたいなものが人々を圧倒したが、今は違う。色の選びの天性の優れはそのまま、ふっと力が抜けた優しい絵になった。
　それがたまらなく良いのだ。

　人々の郷愁を誘う。あるいは『この一瞬をとっておくことができればよいのに』と思う瞬間を、見事に描き表す。
　カメラではなく、彼女の真っ黒な瞳を通した景色は綺麗だった。

　幅広い層の人々が挙こぞって春子の絵を求めるようになったけれど、大病をして描ける枚数が少なくなったのだから一枚あたりが高くなるのは至極当然のことではある。本人はあまり金に頓着がない……というより、金銭の管理がそこまで得意ではない。散財することもなく、意識して貯めることもなく、ただ口座に適当に入ってくる対価を適当に下ろして暮らしていたようだ。

　結婚を機に春子の方から『康太さんの方が得意だと思うから』と言って通帳を寄こし、確認して目玉が飛び出た。すぐに自分のところの税理士を呼び、プロに管理してもらうことにした。安田もプロといえばプロなのだが、第三者を入れた方がいい。
　激甚に刃を撒き散らすくらいの光、輝き方、無自覚に、同じ道を歩もうとする者の心を先に殺して体まで死なせるような、そういう才能に世界中から競い合って支払われる金額は、冗談では済まされない額だった。

　そんな大層なお嬢さんのここ最近だが、元気にはしている。体力は落ちたけれど、日々できる範囲でできることをして、穏やかだった。

　もう暗い海の絵は描いていない。
　よく安田の別邸の庭の様子や、果樹園の彩りを豊かに描いている。
　そういった絵のサイズ感もこぢんまりしていて、時々デフォルメしたものをチマチマとたくさん描いて個展の隅に置いたりするから、とにかく女性層にウケた。

　なんでもこの頃はベビー用品の図柄デザインも頼まれるようになったとかで、よく絵の具を並べてじーっと黙って見つめていることがある。

　今日もそうだ。
　宇宙ステーションで綺麗な色の絵の具を並べ、ぴたっと動かずに考えている。安田は春子がそうして考え込んでいるときに、ちょっと笑っているように見える口元のことを、いつだってかわいいな、と思って見ていた。

「おやつでも食べる？」

　ため息をふーっと吐いたタイミングで声をかけると、印象深い瞳がパッと向けられる。口元はやっぱり、赤ちゃんみたいに少し上がっていて可愛かった。

「おやつ？」

「ちっちゃいケーキ。アソートよ」

「食べます」

　にこーっとするから敵わない。なんでもしてやりたくなる。
　右を見ても左を見ても女の方が若いタイプの歳の差婚をしているが、なるほどね、これは敵わないわ、と思う。別に同い年だろうが逆だろうが、好きになってしまえばそれぞれだろうけど、ひとまわり若い女のこれ・・には敵わない。

　安田がキッチンで茶の準備もしていると、春子がちょろちょろまとわりついてきた。なにか甘えたいことがあるときの癖だった。

「危ないわよ、熱いの使ってるんだから……」

「子どもに言うみたい」

「子どもみたいなもんよ。ハイ、春ちゃん、のいて。おやつタイムよ」

　わーい、と喜んでついてくる。
　おまけのようなケーキを食べているときも、茶を飲んでいる時も、どうにもべたべた甘えてくっついてくるから心配だった。出会いはじめの若い頃から可愛い甘ったれちゃんだとは思うが、いつもと様子が違う。

「なにか思うことがあるときの春ちゃんだわ。どーちたの？　ケーキもっと？」

「ケーキ、ほとんど私が食べましたよ。ケーキじゃなくて……うーん」

「うーん？」

　頬を撫でてやる。
　もともと締まったタイプだが、病気をしてからは『かっくん』と痩せてしまった。夕方には時々疲れ果てて眠っている。かわいそうに。溌剌とした感じは薄れ、眼差しにひっそりと静かな陰を落としている。それでも、春子は春子だ。可愛い春ちゃん。何が悲しいのか。

「康太さん、私と赤ちゃんを作るお話は、どうなったんですか？　自分のじゃなくて、よその赤ちゃんのベビー服の模様のことばっかり考えているの、私」

　赤ちゃん。

「赤ちゃん？　いいけどあたし、ヨボヨボよ。反抗期のガキとボケ老人が同時に来るわよ。運動会なんかも無理よ。命日になっちゃう。おカネは全部遺しとくけど」

　春子がケラケラ笑う。
　赤ちゃんは、無理だ。
　二人ともそれは十分に分かっている。
　でも、時々この話をする。

　赤ちゃん。

　夢の話。

昔々、昔の話

　大きな原因は安田にある。
　ずっとずっと若い頃、大学を出て何年かした頃にパイプカットをしているから、赤ちゃんもなにもない。

　当時は独身だったから、医者には渋い顔をされた。

『これから結婚して、もし配偶者が妊娠を望んだ場合、色々とリスクがありますよ、まだとてもお若いんですからもう一度よく考えてみてください。』

　その言い分も分からなくはない。
　既婚で子どももいて、これ以上は産子を望まない人間向けの手術なのだから。

　でも、安田には関係がなかった。

　自分がマイノリティ側であること、ゴムを着けたくないから言っているのではないということ、女性のことも性的に好きにはなるが、自分が父親になることは生まれてくるその子に良くないと考えていること。
　カウンセラーも交えて主張して、そうしてすっぱりやってしまった。

　正しいかどうか。

　少なくとも、安田にとっては間違いなく正しい選択だった。
　子どもは好きだが、後悔もない。
　重たい荷物をひとつ、やっとのこと下ろして楽になれた。

　その頃の安田にとっては、自分の心臓や魂を圧迫して、時に前触れなく号泣させるような重さの『父親』になる可能性という荷物を下ろすことの方が大切だった。

　当時は性別問わず適当に付き合っては別れていて、セックスもAIDSをはじめとした感染症にだけは気をつけて、人間模様やら知らず知らずの浮気やらなんやらのことはただのスパイスとしてしか考えていなかった。
　男も女も、愛してると言って寄ってきた。
　愛してると言われた時の自分の顔は思い出せない。
　どうでもよかったのだ。
　いろんなことがどうでもよく感じられた。

　人生二度目の大きな地震があって、赤ちゃんたくさん産みたいんだと公言していた、吉岡の当時の彼女が死んでしまって、その彼女というのがまた、可愛い人で、優しい人で、本当に友だちで、その悲しみに引っ張られたこともある。
　それから嶺二。
　あの男前は大学を出てすぐに、お家の都合で一回結婚している。元妻は妊娠したけれど、計算が合わなくて、浮気相手の子どもだというのが分かって、嶺二は受け入れようとしていたけれど結局、生まれてくることができなかった。染色体異常の初期流産。ここについては、誰も悪くない。
　でも若い嶺二は悲しんで『不安にさせた俺が悪い』と言っていた。

　心ない誰かは『これでリセットできたじゃん』と言った。

　元妻は、嶺二が優しいことに耐えきれない、と言って、それで離婚。今はどこにいるかも分からない。個人的には、そんなバカ女はどうでもよろしいけど。
　みていられなかった。

　結婚なんか、と思った。

　なんとなく長く付き合っている男がいた。顔が良かったので顔は思い出せるけれど、名前は全然思い出せない。その程度の『元彼』だ。
　それで、その元彼の繋がりで、レズビアン・カップルの友だちもいた。
　自分以外の三人はしきりに『子どもが欲しい』と言っていて、同性愛者に対する日本という国の現行制度について、度数の高いアルコールを呷りながら、めちゃくちゃに罵詈雑言を吐くことが趣味らしかった。
　ここで政治家の悪口を言ったところでどうにもならないだろうに。
　安田はいつも黙って、肺にガツンと重い煙草を喫って、三人が満足するのを待っていた。

　嫌な予感はあった。

　不妊治療という名目で、子どもを産みたい、と地獄みたいなことを三人が言った。

　要するに、男二人に女二人だから、それぞれに建前上の結婚をし、性交不能という理由で不妊クリニックへかかって子どもを得る作戦らしい。生まれた子どもは一人ずつそれぞれが育てれば良いし、そもそもこの国で同性婚ができないことがおかしいのであって、同性カップルでも子どもを育てたいのに、同性カップルは不妊クリニックで診てもらえない、不公平だ……、そんなふうに捲し立てられた。

　安田はゾッとして、断った。

　ここまで、自分たちのことしか考えられない人間がいるのか。

　同性婚の云々については、安田は正直どうでも良い。有性生殖を前提とした生物学的特徴上、同性婚を選ぶ者の絶対数は少ないし、同性婚が増えたからと言って子どもが劇的に減少して、人類全体に影響を及ぼすとは考えにくい。
　だから、そこは、どうでもいい。
　重要なのはそんな世界規模の事柄ではない。
　もっと小さなスケール。

　生まれてくる子の意思はどうなる。

　出来上がった大人が自分の判断で同性を好きになろうが、どんな思想を持とうが、その本人の勝手だ。
　これから生まれてくる子どもは何も選べない。

　本当に選べない。

　それなら、安田は、大多数に合わせてやるべきだと思う。
　人間、群れで生きて、逸脱者を弾くように出来た生き物だ。
　だから『マイノリティ』なんて言われるんじゃないか。

　それに、不妊クリニックへ掛かれないなんていうのも、そんなのは当たり前の話でお門違いもいいところ。
　物事には順序がある。
　子どもが期待される男女の組み合わせが優先されるのは当然で、そこに『不公平』も何もないじゃないか。言葉の使い方を間違えるにしたって、もっとましな間違え方があるだろう。

　煙草の灰がむくむく伸びて、それが落ちても気にならないほど、安田は怒っていた。人生において、こんなに怒ったことはないんじゃないかというくらい。
　頭の中に不思議と、幼なじみ二人の広い背中が浮かんだ。
　二人とも、どんなに悲しいことがあっても決して背筋を丸めないから余計に気の毒なのだ。

　勝手な想像と期待ではあるけれど。
　世に、『お父さん』という役割が相応しい者があるならば、きっとあの二人。

　あの二人がそれぞれに結婚して、それで、赤ちゃんが生まれたらいいのに。
　あたしたちみたいな、あたしみたいな、こんな。

　こんなのじゃなくて。

　人でなし、と罵られた。
　それで馬鹿馬鹿しくなって、医者へ駆け込んだのだ。
　あの三人が今どうしているかは、嶺二の元妻と同じくらい分からないし、どうでもいい。ただ、連中が順番を破っていないことを祈るばかりだ。

　ああいう連中が少数だということは分かっている。
　彼らなりの主張があることも分かる。

　ただ、安田は嫌だった。

　もう一切ごめんだった。

　助けてくれ、と初めて思った。
　倒壊した家屋と沈黙する姉たちの隙間から、黒い煙から逃げ、クラクションが同じ高さでずっとずっと誰かに向けて鳴り続けて烟るあの日の朝へ、無言で這い出た時にすら思わなかった最後の願い事を、自分のために唱えた。

　分からない。
　俺が、あたしは、助かったのかどうか。

春子の気持ち

　春子は自分の夫が自分の意思で、子どもを持たないと決めて手術を受けたことは知っているけれど、そこに至るまでの細かい事情は何も知らない。
　根掘り葉掘り聞くこともしない。

　どれだけ好きでも他人の人生だ。
　聞いたところで何になる、と切り分けている節もあるし、彼女自身も大きく病んで、出産に耐えられる体ではなくなった。もし安田に挙児希望があり、春子が全くの既往なしだったとしても、夫が50歳、妻が現在37歳の未経妊未経産、分類的には高齢出産に該当する。受精着床、産子獲得に至るには容易でない。

　無理ではない。
　無理ではないが、無理をしなくてはいけない。
　金で何とかなる部分と、どうにもならない部分がある。

　諸国を逍遥する中、痛感したのは日本の医療水準の高さだ。
　清潔の基準が段違いに異なる。
　各国様々文化はあるけれど、こと清潔と出産について、日本に勝る国はそうそうないと思う。

　安全に生まれてくることも、母子共に無事ということも、世界から見れば凄まじいことであって、当の日本人はそんなことを全く忘れている。腹の大きな女がほくほくしながらベビー服やら、冗談のように小さな靴下なんかを選んでいる姿を見かけるたび、春子はこのごろ涙が出て参る。

　名前も知らないあの女の人と赤ちゃんが、どうか健やかにあることを必死になって知っている限りのいろんな神様にお願いする自分がいる。

　病院へ行けば無事に生んで生まれて帰ってくるものと信じて疑わない。
　それを裏付ける実績のある国だ。
　良いことだ。これは本当に。

　だからみんな忘れてしまう。

　妊娠は病気じゃない『から』誰にも助けられないことがある。

　春子はいつだって思わずにはいられないのだ。
　人間そもそも妊娠しにくい。
　どうやったって身籠れないこともあるし、どう頑張ったって流れてしまうこともある。誰も、なにも、悪くない。
　体ごと傷つくのは女だ。　
　目に見えなくても。
　口にしなくても。
　こればかりは。
　これだけは。

　命懸けなんだぞ、女が命を産むというのは。
　別段、崇め奉れというのではない。
　分かってくれとも言わない。
　ただ忘れないでほしい。

　忘れるなよ。
　忘れてくれるな。

　頼むからどうか忘れるな。

　母子共に無事の保証なんかは、世界のどこにもありはしないことを。
　分娩室へ入ったきり、それが今生の別になるかもしれないことを。
　どちらかしか助からない、どうするか選ばなくてはいけないことを。
　あるいは、誰も助からない結果もあることを。

　静寂しじまの分娩があることを。

　ああ、こうしてやればよかったな、ああしてやればよかったな、好きなものくらい食わせてやればよかったなというささやかな全てが、永遠に叶わなくなる日が突如、今日というこの日になるかもしれないことを。

　忘れないでほしい。

　春子はベビー服の柔らかい布にふさわしい色をひとつひとつ、必死になって選んでいる。子どもがいない女に任せるのか、と知らないところで批判されていたことを知ってからは、尚のこと、どこにぶつけたら良いのか分からない怒りとともに。

　ぐるぐる巡る真っ暗で様々な気持ちの中から、時折何かを反射してきらりと輝くものをどうにか拾い上げるようにして。

　ひとりでも多くの赤ちゃんが、産着を健やかに纏えるよう、祈りを込めて。

　春子にできることは、ただ真摯を通すくらいしかないのだから。

どうしようもないこと

（もしも私が、赤ちゃんを産みに行って、それっきりになったら、康太さんはどうなるだろうか？）

　甲斐甲斐しく茶の世話をしてくれる年上の夫の綺麗な横顔を眺めて思う。
　冷たくなった母子を見て、きっと悲しむと思う。
　繊細な人だから、二度と立ち直れなくなるかもしれない。
　酒に溺れるかもしれない。
　それで体なんかを壊されてしまっても、春子と赤ちゃんは助けに行くことができないから、あっさり肝臓をやって死んじゃうかもしれない。

　こんなに優しい人が。

「ねえ春ちゃん、そういえば今日の晩ごはん……ギャーーー！！　ちょっと！！　ちょっと何？！　え、ちょ……？　ちょ、ちょっと待って、ヤッダァ〜〜〜！！」

　ボタボタボタッ、と溢れて落ちる大粒の涙を止められない妻を見て、真っ青になるくらいに優しい人を、遺して逝くのは忍びない。

「な、な、な、何の悲しい？　ン？　どしたん、そんな、やめて。寿命が縮むわ。おーよちよち、ハイ、大丈夫よ、大丈夫なのよ、イヤだわ、ヤダあたし、ちょっとびっくりした、えっウソ、信じらんない、なんだっけ、何の話だったか忘れちゃった、これが50代……？　か、勘弁して……」

　膝の上で向かい合わせに抱きしめられても、背中を撫でられても、春子の涙は止まらない。
　悲しい想像が次から次へと膨らんで、次第にそれが本当に起きるような気がしてならず、死にたくなくて苦しかったし、反面、自分は死んでもいいから赤ちゃんだけは助かってほしいとも思ったし、いつか赤道近くの国で見た、事切れている乳児の異様な羸痩姿が頭の骨の後ろの方で、バシャッとシャッターを切るように甦ったり、あの地震で亡くなった小さな人々の中には知っている子も勿論いたし、安田はきっと孫みたいな赤ちゃんに目尻を下げて優しくするに違いないし、子守唄なんかも夜職仕込みのいい声で歌うだろうし、とにかく、春子はどうすればいいのか、何ができるのか、あるいはできることなんかは最初から何もないのか、分からなくて、情けなさすぎて泣いた。

　空っぽだと思った。

　私は空っぽだ。

「……あのねえ、考えすぎよ。いつまでも思春期なんだからもう。優しすぎるのも考えモンだわ。ちょっと……分かった、待ちなさい。春ちゃん、ね、聞いて」

　つっかえつっかえ胸の内を吐露した春子の耳元で静かに喋る安田の顔にもまた悲哀の陰が差している。春子の苦悩とは少し違う。彼は現実に、目の前で悲しむ妻のことが哀れで、どうにかしたかった。

「……春ちゃん、あたしねえ、まさか五十路でこんなに可愛いお嫁さんもらえるなんて、夢にも思ってなかったのよ。バッカよねえ、若気の至りにしたってやり過ぎたわ。でも、あたしがヤケ起こした頃って、春ちゃん小学生じゃないの？　どうしようもないじゃないの。もし小学生のちっちゃい春ちゃんがあたしのトコきて、未来で結婚するから手術しなさんなって教えてくれても、ねえ？　ただあたしが捕まるだけになっちゃうし。」

　涙で烟る睫毛のすっきりと美しいこと。
　安田は思わず妻の額にキスをして、ぎゅっと抱きしめて続けた。

「どうしようもないことって、あるのよ」

　春子が頷く。
　どうしようもないことを乗り越えてきたというなら、彼女だってそうだ。

「そういう、他人の人生のどうしようもないことまで、自分のせいにしちゃいけないのよ。あたしね、手術した時も、今も、後悔していないんだけど、春ちゃんにそうして泣かれちゃうと、自信がなくなっちゃう。」

「ごめ、ごめんなさい、私、そんなつもりじゃなくて、私、私……」

　うううっ、と嘆いて小さくなって胸板に埋まってくる体が、背中が、すっかり痩せて小さくなって、安田にとって一番悲しいのはそこだった。年若い妻が病気をして痩せてしまったことが、こんなに辛いとは。

　自分のような死に損ないのオカマの寿命分、春子をすっかり元気にして、それで、こっちがあの世から悔しがるくらいのイイ男……別に、女でもイイけど、とにかく春子姫に相応しい何某かをお盆のフレキシブルな幽霊パワーとかで送り込んで、再婚でも同居でもなんでもしてくれたらいいのに。

　でも、そんなのは、どうしようもないこと。
　今生きている自分たちが、今ここにいることが、それだけで正しいことに、あとから自然にまとまっていくことを知っている。
　今は分からなくても、後から分かる。
　答えが欲しいのは今ではあるけど、結局、ああ、あれでよかったんだ、とか。
　そういうふうに、きっと。

「安田さん」

「やーね、あんたもよ」

「私、赤ちゃんが本当に欲しかったら、もっともっと早く、康太さんにプロポーズしてたと思うんです」

　しくしく泣く合間に、ぽつぽつ喋る。

「でも、しなかった。結婚してから初めて赤ちゃんのことも考えて、それで、叶わないって分かっているから、こういうふうに、たまに話し合わないと辛いのかもしれません。どうにかして今さら赤ちゃんを生みたいとか、そういうことじゃないんです。もしもの話をして、それで、康太さんが、きっと赤ちゃんに優しかっただろうなっていうことを、想像したいだけなのかも。そう思うんです。」

　夢の話。
　二人とも、よく理解している。
　安田は目を見て頷いてやって、それで、若い頃の自分のことを少しだけ想った。
　若造の頃、それなりに悩み抜いて『一抜けた』した自分。
　正しかったと信じている。

「そりゃ、優しくするに決まってるでしょ。春ちゃんが子どもくらいなんだから、そのバブちゃんなんか、孫よ、孫。孫なんか、可愛いだけらしいわよ。こないだ大学の同期にも孫生まれたのよ。そういう年齢よ。優しいわよ、そんなもん。」

「孫……」

「そ〜よ。50年生きてりゃね、孫が生まれたりもするみたいだわ。」

「孫、見たかったですか？」

　ううん、と安田は首を横に振った。

「孫よりね、あたし、春ちゃんが元気に生きてるとこが見たいのよ」

伝えたいことがあるの

　二人のセックスの回数は、特に春子が大病してから格段に減った。
　夫婦のいずれにも性欲はあるからちょっとした触れ合いは多いが、実際に性器の挿入云々よりも、安田が春子の自慰を補助するような形で落ち着いている。

　自分の腕の中で気持ちよさそうに腰を浮かせたり沈めたりする、女盛りの妻。切なそうに眉根を寄せて、く、と細い顎を引き、尻を緊張させて絶頂し、ふー……っと脱力していく体、しっとりした肌、よく濡れる膣のぬくもり、うなじにかかる細い髪、目があうとニコッと微笑んで『気持ちいい』と呟く可愛い春子。

「シャワー……浴びてから、もういっかい……」

「いいわよ。おいで、お背中流してあげましょうね」

　脱衣所に連れて行って、するする脱がせていく。
　繊細な細工の柔らかいブラジャーを取り去って顕になる乳房の、穏やかに下降する曲線。本人は『おばさんになりました』と恥ずかしがって隠すが、なんの、若い頃とはまた違う、成熟した女の良い乳だ。
　かがみ込んで鎖骨にキスをひとつしてから、ショーツに手をかける。
　春子はすっかり安田を信用しているから、抵抗しないで、自分の性器を隠す薄い布が脱がされる様子を静かに見つめていた。

「さっき、きもちよかったから、ちょっとだけぬるぬるがついてるかも」

　ぽそっと予防線のようなことを呟くからいじらしい。
　彼女の言う通り、ショーツのクロッチにはぬるりとした体液が付着して濡れており、安田は少し意地悪な気持ちになって、人差し指と中指を妻の膣の入り口に滑らせた。ぬるぬる、先ほどの前戯の余韻が溢れている。春子は壁にトンと背中をつけて、それでも抵抗はしなかった。乳首の先がぷく、と膨らんでいる。

「溢れてる」

「いや……」

「いや？　どうして」

「恥ずかしいから」

「キュンとしちゃうわね」

　妻が恥じらって、例のちょっとだけ笑っているように見える口元で『でもすごく気持ちいいの』と白状した。
　可愛いやつめ。
　風呂場で、安田は丁寧に妻の体を隅々愛撫しながら洗った。
　物哀しく痩せた体を、どう間違えても傷つけないように。

　春子は知り合った頃の小娘の頃から、風呂場の床にペタンと座ることが好きだった。掃除はきちんとしているが、男女の性器の構造上、ワンクッション噛ませたほうがいいのではないかという安田の判断で、折り畳みのバスマットを導入した。使わない時には干しておける、例のあれだ。
　弾力に富むそれを甚く気に入った春子は、今日もいそいそとマットを敷き、嬉しそうに安田を見上げてくる。一緒に座りましょう、というお誘いだ。

　どうしても、ずっと小さな頃に女の子の友だちに誘われたおままごとを思い出させる。小さな遠足シートの上でやるごっこ遊び。安田はいつも、そのおままごとの世界では『お父さん』か『お兄ちゃん』だった。
　お母さんをやろうとすると、先生に『康太くんは男の子だから、お父さんじゃないと変よ』と注意された。
　そういう時代だった。

「あ、きもちい……シャワー、あったかいですね……」

「気持ちいい？　良かった良かった。でもあんまりお風呂場で遊んでると風邪ひいちゃうからね、もうちょっとだけにしましょうね」

　春子の背中に絶えず湯をかけてやる。
　綺麗な背中だ。よく歩いていたからきゅっと締まった腰で、そこからしっかりした尻、太腿の裏、脹脛、また引き締まった足首から、滑らかな踵と続いていく。
　シャワーヘッドを壁にかけて、安田は妻の腰を両側から優しく掴んだ。
　言葉を交わさずとも何かを察した春子は従順で、そっと尻を上げてくる。

　二十代のお姫様の頃とは違う、もっちりした脂肪をつけた尻たぶを開いて、二つの穴を同時に撫でた。

「あっ」

　浴槽の縁を掴んでいるが逃げ出さない。
　本来の使用目的とは異なる穴にも、何度か挿入をしたことがある。春子は身体的にというよりも、嫌な思い出を塗り替えたという心理的な気持ちよさで受け入れていたが、やはり膣の方が収まりはいい。
　もっぱら、前戯に活躍する可愛い穴だ。

「あ、あ、そっち……」

「こっち？」

「そっちは、おしりです……。ちょっと恥ずかしい」

「恥ずかしいの？　そっか、恥ずかしがりね」

「うん……」

　そーっと腰の位置を下げて逃れようとする。

「あら、だめよ春ちゃん、勝手に逃げちゃ。悪い子ね」

　後ろから抱き寄せて、乳房の下に腕を差し入れ、空いた方の手で再びシャワーをつかむ。春子は小さな声で謝っているが本気の抵抗はしない。彼女は夫の胸板に自分の背中を丸ごと預けることが好きだった。

「戻ったら、どっちもやってやるんだから」

「久しぶりだから、痛いかも……」

　そこは不安がってちらっと見上げてくる。

「……痛いことなんかしないよ。ゆっくりにしましょうね。」　

　言って、安田は妻の足を開かせ温かいお湯をかけて安心させてやる。粘膜を流しすぎても良くないだろうから、下腹にかけ、胸にかけ、足にかけ……春子がすっかり油断してうとうとするくらい丁寧に。

　何度でも、厭わずに言う『春ちゃんが元気ならいいのよ』の言葉に、春子の方も、繰り返し『私は元気ですよ』と答える。

　背中から抱きしめて、何度でも。

「ねえ、あたしね、春ちゃんが元気ならいいの、本当に、それでいいのよ……」

◇

　寝室の引き出しに、ちょっとしたおもちゃがある。
　小さなローター、やや細めのディルド、春子の体質に合ったローションや、質の良いコンドームの箱。
　春子は、自分がこれらのおもちゃで自慰をしているとき、近くに安田がいてくれると何故かとても安心した。別に露出の趣味があるとか、そういった嗜好の自覚はないが、あたたかい毛布と暗がりの中でひっそり気持ち良くなっているときに、横に寝そべっていてもらえると何も怖くないと感じる。自分がしていることは自然なことだと肯定的にも思えて、不思議だった。
　誰にも邪魔をされずに一人で愉しんでも気持ちいいのだが、安田がいた方がより感じる気がする。
　オナニー以上セックス未満といったところか。
　安田は時々手伝ってくれる。
　今日のこれは前戯だけれど。

「春ちゃん、おしりも随分慣れたわね。怖くない？　大丈夫？」

「は、い……。気持ちいい」

「可愛いんだから。いま、すっごいエッチよ。おしりにこんなの挿れて。」

　ゴムを着け、ローションをたっぷりまぶしたディルドが少しずつ押し込まれる。
　春子はベッドの上で、枕を横抱きにして夫に体を任せていた。ちょうどいいところまで当たって、今自分がどれだけ卑猥な姿になっているかを想像して、内股が締まる。ところが締めるとおしりの方に刺激がいって、慌てて力を逃すと膣の方がゆるんとなって、締めたくなってしまう。
　どうやっても責め立てられ、春子は夫に見られながらしばらくイくにイけない緩慢な気持ちよさに浸っていた。

「ひい、ふ……ふう、抜いて、抜いて……」

「抜いちゃうの？」

「あー！」

　ぐいーっと引っ張られる。言い表しがたい感覚、お通じがするっと出る感覚に近いが、もっと性的な感覚を伴う排出感が、春子の被虐的部分を刺激する。

「抜いて欲しくなさそうよ、ぎゅってしてる。じゃあ、戻しましょうね」

「うぃいいっ、んんん、ぐ」

「春ちゃん、おもらししてるみたい。ほらこっち」

「う……」

　ディルドの根本まで突き刺された春子の細い手首を、安田の骨張った冷たい手がとても優しく導いて、膣と、官能の限界まできてぱんぱんに膨らんだクリトリスを触らせた。
　春子は自分を止められないで、いきたい、と思って、自分の一番好きな、一番気持ちいい強さと速度でそこを撫で、きゅーっ！　と高まってくる気持ちよさにすぐ到達し、おしりにおもちゃを咥え込んだ状態で激しく絶頂した。
　漫画や映像商品のようにビクンと体が跳ね、体の先端からすーっと圧力やモヤモヤが抜けていく。
　妻の一連の自慰を見届けて、夫の方がそっと頬にキスを寄越した。
　愛おしいものに贈る親愛だった。

「春ちゃん、あたしも挿れていい？」

「うん……。いれて。いま、たぶん、全然痛くないとおもいます……」

「あら、じゃあそんな大チャンス、逃すわけにはいかないわ」

　春子は安田の顔を、いつも『綺麗だな』と思う。
　綺麗な男の人だ。
　路海ちゃんの吉岡さんは実にいかついけれど精悍で、葵さんの嶺二さんはちょっと造型が整いすぎていてびっくりするけれど、二人とも、いわばしっかりとした男性の骨格で、安田の『綺麗』とは全く違う。

　おしりにおもちゃが入っている状態で、夫のそれが、とん、と膣の入り口に当たるのが分かった。体が男の人であることは間違い無いのだ。心も、おそらく春子の前ではほとんど男性なのだろう。春子以外の時は、明けていく空のように濃度が違うのだ。そういう、佳よい景色をそのまま心として持って生まれた人と結婚をした。

　長い指で、ほっぺや髪を大事に大事に撫でてくれる、綺麗な顔の男の人がニコッと笑っている。
　初めてこの人とセックスをしたときにも笑いかけられたことがあった。

　春子はどうしても忘れられない。
　雷が轟き、風が吹き荒ぶスコールの夜が似合って、優しくて、いい匂いがする綺麗な男の人が自分だけに微笑みかけてくれることが信じられなかった。
　年を重ねるごとに透き通っていく瞳の美しさを、死ぬまでにどうにか、描くことができたらいいと思う。

「康太さん、そのままいれてほしいんです。私の中で、出して欲しいの」

「……」

「赤ちゃんが欲しいとか、そういうことではなくて。」

　ほんの少しだけ、二人の間に沈黙が流れた。
　不安になる直前に抱きしめられて、それというのがあんまり慈悲深いやり方だから、なんだか泣けて泣けて仕方がなかった。

　どの言葉も違うのだろう。
　黙ったまま春子の涙を綺麗に拭って、耳たぶをぱくりと甘噛みする。
　合わせて、膣の入り口に接触があった。

「あっ！　あ！　あ……」

「痛くないかな」

「いたくない……」

「うふふ、春ちゃんってば欲張りね。こっちにも、おしりにも、おなかいっぱいでしょう。かわいい。……。あなたは……。あなたは、かわいいね、春ちゃん……」

　ぽた、と涙が落ちてくる。
　春子は驚いて、自分もまた涙が出て、滲む視界の中でせめて目を逸らさずにいようと想った。
　ゆっくり腰が動く。
　気持ちいい。ものすごく穏やかな『気持ちいい』が少しずつ迫ってくる。

「愛してる！」

　それは突如として春子の口から、確固たる意志でも持っているかのようにぽんと出て行った。
　自分は、夫にそう伝えるために生まれたのかもしれない。
　赤ちゃんを産むことはできなかったし、一緒になるまでずいぶん時間がかかったけれど、なにもかも自分から切り捨てていくような彼に、愛していると伝えることが使命なのかもしれない。

　伝えなくては。
　伝えなくてはいけない。
　一度でも多く。
　命ある限り一度でも多く。

「愛してる！　康太さん、私、あなたのこと、愛してるよ！」

　抽送が激しくなる。
　春子は必死だった。どうしても伝えたかった。自分が知っている限りの言葉を尽くして伝えておかないといけない気がして辛かった。
　夫の腰と自分の腰が一番近くまでくっついて、息が詰まるくらいに抱きしめられる。後頭部の短い髪をしょりしょり、いつもそうするように慈しんで、安田康太がやっと応えてくれた。

　優しい顔の、私の夫。

「実は、あたしもね、春ちゃんのこと、愛してるのよ。」

私たち次に生まれたら

　春子がごくごくお茶を飲んでいる。
　素っ裸で、鎖骨や肋骨が薄く浮かぶくらいには痩せてしまっていて心配であることに間違いはないのだが、なんだか、生命力で漲っているように見えた。
　いままでで一番いいセックスだったと思う。
　途中から安田は胸がいっぱいになってしまって、こんなお嬢さんに泣かされてしまって非常に悔しい部分もあるのだが、とにかく、凄いことをした。

　美しい額にうっすら汗をかいた春子が前髪をさっと後ろにかきあげ、やれやれ、と空になったグラスを置く。
　一戦きっちり勝った女の美しさだった。
　涙腺ガタガタの耄碌ジジイに勝ち目があるはずもないのだ。

「おなかが空きました……」

　ぽつん、とちょっとしょんぼりして呟く。それで思い出した。

「そう、思い出したわ、そうよ、あたし『今日の晩ごはんなんにする？』って聞こうと思ってたのよ。うっかりセックスしちゃったわ。どうする？　春ちゃん何食べたい？」

「カツ丼」

「あたし、春ちゃんのそういうたくましいトコがス・キ！」

　出前サービスのアプリを立ち上げて、春子に選ばせる。安田自身も珍しく明確に腹が減った。胃もたれしない程度のメニューを選んでいると、ふと『お子様セット』が目に入った。春子も同じ画面を見ている。

　私たち、と彼女が言った。　

「私たち、次に生まれたら、今度は、赤ちゃんを生みましょう。それで、その子に、おなかいっぱいの暮らしをさせましょう」

　神託とはこれだろうか？

　安田はぽかんとしたあと、ただ全く自然に頷くしかなかった。
　首を横に振る理由も一切なかったのだが、次に自分たちが生まれた時、また一緒になって、今度は子どもを産んで育てることが絶対な気がした。
　春子が満足して笑ってくれる。

「……春ちゃんデザインのベビー服が後世に伝わるように、いまから各所の特許取らなきゃ。それ着せるわよ。絵と一緒に個展に飾られるようにしときましょう。」

「はい！」

「そうと決まればカツ丼食べて精をつけましょ。今回の人生は、アレね、伏線ってことなんだわ。お仕事してナンボよ。」

「康太さん」

「はい」

　春子の真っ黒な瞳が、彼女の体の内側から光っている。
　そうそう、自分はこの女の子のこの瞳に、すっかり参ってしまったんだった。

「私、はじめて康太さんのこと、助けに行けた気がするんです」

　何もかも見透かしちゃうんだもの。

「……。オシリ丸出しのすっぽんぽんでナマイキ言ってんじゃないわよ。百年早いわ。さっさとおパンツお履き！」

　助けてくれともがいて、助かったかどうか分からない、若造の自分に教えてやれたら、少しは安堵するんだろうか。
　あんた、そんなに思いつめなくったって、結局どうにかなるわよ、なんて。

　きっとそうに違いない。

　だって最後には、結局全部『これでよかった』にたどり着く。

　それだけは確かなことなんだから。

　ねえ。

　私たち、次に生まれたら、きっと。

（おしまい）