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尾形敏朗「小津安二郎 晩秋の味」

映画監督・小津安二郎の墓石には「無」という一文字が刻まれている。それはかつて小津が中国在留中に、お坊さんに頼んで書いてもらった一文字であるという。中国といってもおそらく今の中国ではなく、日本も今の日本ではなかった。1937年から1939年の2年間。侵略戦争の前線で銃が、日本刀が、毒ガスが使われた。そこで小津は人間を殺したし、また同胞を殺されている。
しかし小津は映画の中で軍人を、軍服を着た人間を一度も映さなかったという。言い換えれば、戦意高揚のプロバガンダには積極的に加担しなかったということだろう。そして戦後もそれについて直接的に描くことはしなかった。はっきりと肯定も否定もしなかった。その代わりに徹底してテーマとして選び続けたのが「家族」であった。

たとえば、登場人物が「昌二」という名前であれば、家族関係においてひとつの推測が成り立つ。彼が次男であり、兄弟がいるということだ。実際、小津自身が次男であり、兄は新一、弟は信三という名前であるという。では「一」の文字を持った兄はどこにいるのか?映画のなかでは多く語られないその存在に、戦争の影を強く思い起こされることとなる。
その、「いたけれどもういない」という欠落感こそが、小津安二郎監督作品の魂だと俺は感じている。それは墓に刻まれた「無」という一文字にも通じるはずだ。しかし、俺が映画を観て感じるのはその逆、「いまはもういないけれどたしかにあった」という存在感なのである。その感覚が俺にとっては癒しであり、生きるうえでの支えになっているといっても過言ではない。

尾形敏朗『小津安二郎 晩秋の味』
この本では、過去の文献を参照しながら、2022年の視点で小津安二郎を読み解いていく。そこで鍵となるのが戦争であり、1938年に中国で病死した映画監督・山中貞夫である。小津と山中の交流については多くの証言が残されていて、そこには特別の友情があったであろうことがわかる。しかし山中はいなくなり、自分は生き残っている。どれだけ語らなかったとしても、映画にはその感傷が記録されているはずだ。著者の尾形敏朗によればそれは背景に映り込む葉鶏頭であり、笠智衆が飲みに行くバーであり、そこでかかる軍艦マーチのレコードである。

俺が重ねて思うのは太宰治のことだ。戦時中にも創作の手を止めることなく、そして戦争を描くことを選ばなかった作家。1943年には、一族が滅んでいくことを描いた『右大臣実朝』を、1945年には昔話を現代語訳した『御伽草子』を発表した。ひたすら道化であろうと、気が狂ったふりをして同じことをし続けようと、それは異常な世界のなかで正気を保つための命をかけた戦いであると俺は思う。
「家庭の幸福こそ諸悪の本」と言い切った太宰に比べて、小津安二郎はただ素朴に家族の美しさを描いていたのだろうか?いや、決してそうではないと思う。いつか滅んでいく家族というものを、誰も彼もが適当に忘れ去ろうとしているなにかを、映画に残し続けることが彼の抵抗だったのではないだろうか。だとしたらその姿勢はマンネリズムの対極にあるのではないだろうか。俺は俺の願望を込めて、小津安二郎の映画をもう一度観てみようと思ったのである。

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