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適応障害

2021年10月30日(土) 晴れ
10月1日付で緊急事態宣言が解除され、10月24日には酒類提供を含めた飲食店の時短要請も解除された。拍子抜けするようなスピード感で、街のにぎわいが戻っている。抜き打ちテストのようだった季節外れの寒さも通り過ぎ、奪い返した秋を謳歌するような日々。
友人のライヴを観に行った。大学時代の同級生。サークル仲間だ。それにしても「サークル」という言葉はいまだに気恥ずかしさがある。うしろめたさと言ってもいいかもしれない。親のお金で大学に通って、まるで大人であるかのように振る舞っている。そんな自己イメージの齟齬で、俺が精神を崩したのが18歳のとき。もう義務教育ではないのだから、「なんでも自分でやらなければいけない」と思っていた。

そもそも高校時代は、バンドができれば何でもよかったので、親に負担をかけるくらいなら進学しなくてもいいと考えていた。家計について親から心配をかけられたことは一度も無いのだけど、父親の仕事が安定していないことを知っていたから無意識に遠慮していたのかもしれない。かといって、進学しないで何をするかという計画も無く、最終的には家族からのアドバイスを受けて大学に行くことに決めた。しいて言えば叔父さんから言われた、「大学は人と出会うために行くんだよ」という一言が決め手だったかもしれない。その叔父さんは母親の兄にあたる人で、大学を中退してもう一度入り直してみたいな、わりとやりたい放題やってきた経歴があるようだった。母親から言われた「将来のために」というアドバイスはあまりに常套過ぎて一切受け止められなかったが、それも今となってはありがたく感じている。

そんなやりとりを経て、高校三年から受験勉強に取り組んだ。得点を取るための勉強だったのでその中身のほとんどは忘れてしまったが、あの時期が苦しかったという覚えはない。誰から強制されるわけでもなく、自分で選んで学習しているという実感があった。ばらばらに散らばっていく同級生たち。図書館の静かさ。休憩時間に感じる冬の冷たさ。俺はむしろ自由を感じていた。「自分は勉強が嫌いではないかもしれない」と思ったのは、あのときの経験があってこそかもしれない。自分の家から一番近い大学を選んで、無事に入学試験を通過することができた。

おかしいな、と思ったのは新しい環境に少しずつ慣れてきた頃だった。これが5月病なのか、と思ったのをよく覚えている。それは6月になっても治らなかった。それでも、「なんでも自分でやらなければいけない」と頑なに思っていた。勉強をおろそかにするわけにもいかないし、バンド活動を止めるわけにもいかない。すでに出会っている友人や恋人も大切にしなければいけない。そう考えると、サークルに入るという選択肢は自ずと消去された。さらに、できれば自分が遊ぶお金くらいは自分で稼ぎたいと思ってアルバイトを始めることにした。いや、稼ぎたいとは思っていなかった。稼がなきゃいけないと思っていたのだ。
なんとかファミリーレストランの調理スタッフとして採用が決まったが、その日をきっかけに俺の精神は崩壊してしまった。雇用契約を交わしたあとで、「これ参考までに見といてね」と言われてメニュー表を渡されたのだが、その内容が一切目に入らなかった。覚えられる気がしなかった。無理だ。サラダの名前が、パスタの塩加減が覚えられない。できない。無理だ、無理。働けない。何もかもダメだ。その瞬間、それまで無かったことにしてきた不安が一気に襲いかかってきた。レポートも書けない。単位も取れない。恋人ともいつか別れる。友人とも疎遠になる。バンドは誰からも評価されないし、メンバーもいなくなる。ダムが決壊したような不安に俺は飲み込まれ、「こころの相談室」に泣きながら電話をかけた。まさかこの電話番号を自分が使うことになるなんて。電話の相手は穏やかな女性の声だったが、何を言われても耳に入らなかった。ただ、すべてを諦めなければならない、これまでと同じようには生きられない。その確信だけがあった。そのあとレストランに電話をかけて、アルバイトを辞めることを伝えた。一度もレタスをちぎることなく、一度もパスタを茹でることなく、レストランを辞めた。後日、メニュー表を返しに行ったときに、「こういう無責任なことはしちゃだめだよ」と言われた。

そのあとのことはあまり覚えていないが、数日後に母親と一緒に大学の相談室に行き、紹介された心療内科を同じ日に受診したはずだ。もう終わった、と思った。

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