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【小説】 チューニングの散歩


 台風一過。気分はそんな感じ。
 レコーディングが終わり、怒涛のスケジュールから解放された。
 ポカンと予定がなくなると、その落差に気が抜けてしまう。日常が遠のいてしまっている気がした。これまでだったら学校があったけど、それもなくなり手持ち無沙汰。学校って、チューニングする場所でもあったのかもしれない。

 たっぷり眠って、気付けば朝の10時を過ぎていた。
 このまま家でダラダラしててもよかったんだけど、イヤホンをはめ、iPodをシャッフル再生したら、リストの「ラ・カンパネラ」が流れてきたから、散歩に出ることにした。こんな難曲を聴いて、じっとなんて出来ないよ!
 星の雨が降るみたいな複雑で美しい旋律を聴きながら、顔を洗う。歯を磨く。気分上々。
 思ったりよりもスッキリした顔。疲労は見えない。

“私って、まだまだ若いんだ”

 大人と仕事をすることが増えたから、なおさら自分の幼さが見えてくる。肌はモチモチしてるし、毛穴もキュッとしまってる。中学時代、ニキビで悩まされていたことが懐かしい。それくらい、肌が整っていて、ピチピチしてた。

“うん、イイ感じだね”

 鏡を見た時くらいしか、自分を褒めてあげられないんだから、朝一番に最も誉める。歯磨き粉で口の周りが白い自分を、甘やかす。
 やけにピアノのボリュームが大きくなる。イヤホンが割れんばかりに激しいピアノのタッチ。それでいて音が粒だっていて、今にも音符がこぼれ出しそうな演奏。情熱的な「ラ・カンパネラ」だ。思わず手に力が入り、歯茎が痛くなった。目が覚めた。この曲は奏者によって、テンポも雰囲気も全く別物になる。それが面白い。
 
 外に出ると、ぬるい風が頬を撫でた。舌で歯茎を舐める。
 桜が咲いたと思っても外は寒くて、いざ温かくなってきたと思ったら、夏の香りに変わっている。春はどこへやらって感じ。でも、とっても気持ちがイイ。
 イヤホンをポッケにしまうと、鳥の声、子どもの声、車の音など、環境音がやけに大きく聞こえてきた。ゆっくり息を吸い込み、空気を味わう。

“空気が美味しいって、比喩じゃなかったんだ”

 私は、日常を取り戻す、チューニングの散歩にでた。

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