【小説】 口の中のつぶやき
ドラムを始めて気づいたことがある。
身体と心は繋がっているということ。
どんなに心に雨雲がかかっていても、スティックを振り回してドラムを鳴らすと、気分が晴れる。その後、少し時間が経てば、また雨雲がやってくることもあるけど、長雨が降ることはない。
身体を動かすから、気分が高揚するのだ。
はあ、はあ、はあ。
ドラムは不思議な楽器だ。
音を奏でているはずなのに、メロディがない。
間違いなく音楽の一部であるはずなのに、それを疑う瞬間がある。
演奏者には、音の微細な変化などが分かっても、観客にとってみれば所詮「打楽器」でしかないのだ。単調な音の繰り返しだと思われている。
ここから目を逸らしてはいけない。
だからこそ、自分もドラムを選択したのだ。
はあ、はあ、はあ。
胸が上下に動く。
喉を熱い息が通った。
時計の針を見ると、たったの1時間半しか経っていない。
それでも背中はびっとりと湿り、頭皮から顎にかけて何本も汗の道ができている。
首をぐるりと回してから、ヒロナは水で喉を潤した。
カツ、カツ、カツ。
濡れた服を着替え、部屋を出ると、黒鉛をノートに刻む音が聞こえてきた。音の出どころに首を伸ばすと、開け放たれたドアの向こうには、机に向かっているユキトの背中が見える。
誰かに見られている意識があれば常に勉強ができるからという理由で、弟はいつも部屋のドアを開けていた。その言葉に偽りはなく、驚くほど長い時間、弟は同じ体勢でいる。
漫画を読んだりと息抜きもしているらしいが、その脅威的とも言える熱心な姿勢は、近くで見ていると時々心配になることがある。
ふと、父が弟を叱る姿が脳裏をよぎった。
運動神経や人付き合いなど、全てにおいて人よりワンテンポ遅く、おっとりしていたユキトを、せっかちな父は容赦なく怒鳴った。確かに鈍臭い部分があることは否めないが、それが彼のいいところでもある。
しかし、父は「ぐず」だと罵り、時に、ユキトは身体にアザを作った。
怒られた日、ユキトは部屋にこもり、難解な計算問題などを解く。
彼にとって、ストレス発散が勉強することだったのだ。
ポロン、タラン、ララン。
ユキトの耳についたイヤホンからうっすらと音が聞こえてくる。
なんの曲を聴いているのかは分からないが、ロック調の曲ではないことは確かだ。
勉強の邪魔をしてはいけないと思い「大晦日にまで勉強ができるなんて凄いねえ」と口の中でエールを呟いたが、そんな自分も大晦日に電子ドラムをジャンジャン叩いているのだから、ハタから見れば、どっちもどっちなのかもしれない。
“ないものねだり”という言葉の通り、人は自分と相手の違いをわざわざ探してしまう生き物だ。受験をしないと決めたら、受験する人を意識してしまうし、せっかちな人ほど、おっとりした人が気になってしまう。逆も同じだろう。
人と自分を比べることで、初めて自分の存在を意識できる。
自分の立っている場所が見えてくる。
そんなものなのかもしれない。
ユキトに自分の存在が気づかれていないと分かっているのに、ヒロナは足音を立てないように、部屋の前を通過した。
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