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【小説】 手に残るもの


 雪のない東京とはいえ、冬は寒い。
 ストーブに当たりながら漫画を読んでいたヒロナは、思わず小さく身震いした。家には暖房や炬燵も揃っているが、ストーブの吹き出し口から香るホコリが焼けるような匂いが好きで、冬になるといつもこの場所を独占する。
 同級生は受験勉強に躍起になっているというのに、自分だけがヌクヌクと背中を丸めながら暖をとっているなんて・・・。
 ヒロナは背徳感を覚えたが、部屋の隅にあるリュックサックに眼をやると、その気持ちは自然とどこかへ飛んでいく。
 数日前、ヒロナが所属するバンド「HIRON  A‘S」の高校最後のレコーディングが終わった。ミニアルバムの製作とはいえ、事務所が全面バックアップしてくれる本格的なレコーディングだ。
 ヒロナは初めてディレクションサポートにも関わり、改めて音楽業界で闘っていくことの厳しさ、自分の存在意義を問われ、心身ともに消耗していた。
 リュックサックから真っ黒になった歌詞と楽譜の紙束が顔を出している。

 私なりに、自分の役割を果たしたつもりだ。

 そう自分に言い聞かせ、ヒロナは逃避するように漫画に耽った。
 レコーディングが終わっただけで、まだアルバムが完成した訳ではない。ここから曲が編集され、アルバムタイトルや、ジャケットを考えなければいけない。やることは山積みにある。
 「アーティストがここまで首を突っ込まなくてもいい」とマネージャーに言われてしまったが、ヒロナはどうしても制作工程の全てに携わりたかった。
 自分の手に何が残るのかを知りたかったから。
 実感として、モノを作るという感触が欲しかった。

 漫画のページをめくると、キャラクターたちが愛おしく躍動する。
 脳内で効果音やBGMが流れ、登場人物たちが理想の声で喋り出す。
 この子たちが、一人の漫画家から生み出されたということが信じられなかった。
 ふと、ヒロナは漫画を書いていた小学生時代を思い出す。
 あの頃は、今以上に漫画の世界に没頭できた。
 大好きな漫画に出てくる登場人物を、自分が作ったオリジナルストーリーに登場させたい気持ちに駆られていた。
 このキャラクターには、こんなセリフを言って欲しい。
 ここで恋物語が始まったら面白くなるんじゃないか。
 頭の中に広がる世界通りに人物を動かそうとした。同人誌の原型みたいなものだ。
 そして、紙と鉛筆を用意し、目を爛々と輝かせながら手を動かす。
 コマを決めたり、人物配置を考えるのが面白い。
 地味で果てしない作業だが、飽きることなく心は生き生きとしている。
 ヒロナは夢中になって漫画を書き上げた。
 しかし、完成した漫画は、理想から程遠い仕上がりになった。
 頭の中のイメージと、生み出される表現がチグハグになる。
 悔しさに突き動かされ、消しカスの山を作りながら何度も修正を繰り返した。
 少しでも頭の中のイメージに近付けば、漫画家の道も考えたかもしれない。
 指が筋肉痛になるという稀有な経験をしながら、幾度となく挑戦をしてみたが、漫画はまるで上達しなかった。
 世界は自分中心で回っていないことを知った、初めての経験だったかもしれない。

 自分は何も持っていない。
 あるのは好奇心と行動力だけ。
 いつも誰かの才能にぶら下がるように生きてきた。
 だからこそ、モノ作りに対するコンプレックスが強かった。
 今回のレコーディングでは、己に対する殺伐とした気持ちを呼び覚ました。
 バンドだってそうなのだ。
 アキという圧倒的な才能ありぎで結成されただけ。
 だからこそ、自分が作ったという実感が欲しかった。
 ヒロナは漫画から眼を離し、重い息を吐く。
 レコーディングという大仕事を終えても、自分の手には何も残っていない。
 あるのはドラムスティックに擦られてできた、硬くなったマメたちだけ。

「ヒロナ、お疲れ様でした」
 ストーブの前で丸くなるヒロナに、母がココアを淹れてくれた。
 態勢を動かさずに、漫画だけを傍に置き、カップを受け取る。
 ゆっくりとココアを啜ると、想像以上の甘ったるさが口に広がった。
「ふふふ、ちょっと、粉入れすぎちゃった!」
 母は悪戯っぽく笑ったが、その笑みに嘘がないことに、ヒロナは安堵した。

 

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