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【小説】 あなた


「じゃあ、再開しまーす」

 阿南さんの声が響くと、ガラスの向こう側でマイクの前に立つマキコちゃんが「お願いしまーす!」と快活な声を上げる。コントロールルームにいる私とアキちゃんは、ソファにちょこんと座り、譜面とにらめっこ。今回のレコーディングでは、ついにアキちゃんもディレクションに参加することになった。

「マキコちゃん、では“あなた”の収録に入りますね。まずは自由に歌って、曲全体のイメージを掴んでいきましょうか!」

 マイクを通じてオペレーションをするのは私の役目。バンドの関係性がレコーディングになると、また変わる。裏方と演者という関係。スタッフとアーティストという関係になる。使う脳みそも変わり、自分の言葉が重く感じる。
 技術スタッフが「では頭からいきまーす」と言うと、すぐに前奏が始まった。
 マキコちゃんの強くてのびのある声が響く。リズムを刻み、歌詞のイメージを立てるようにハキハキと歌っている。

「すごくいい感じだと思いまーす! ちょっとだけ硬さを感じたから、もう少し曲に身体を委ねるようなイメージでいきましょうかね!」
「はーい、すみません」
「謝ることじゃないでーす! ではAメロからお願いします!」

 マイクから口を遠ざけると、つい周りを確認してしまった。あたかも自分がレコーディングを仕切っているが、実際にコンピューターを操るのはプロのスタッフさんなのだ。大人たちの反応も気になってしまう。
 うんうんと頷きながら作業する大人の後ろ姿や、横顔が見えた。少し安心。
 隣に座るアキちゃんはニコリと笑みを浮かべ、振り返るとマネージャーの阿南さんは「任せた」と言わんばかりのキッパリとした表情をしている。
 
「流れまーす」という技術スタッフの小さな呟きの後、再び前奏が始まった。言葉を立てながらも、曲の流れを意識する。たったそれだけで、見違えるようにマキコちゃんの歌声は胸にスッと届いてきた。よし、イメージに一気に近づいてきた。コントロールルーム内の空気が変わるのを感じ、力が湧いてくる。

「“あなた”っていう言葉を、もっと愛おしい人のイメージでできますか?」
「サビに向けて、曲のイメージが膨らむ感じがいいと思います!」
「次はリズムを意識して、疾走感を出していきたいです!」

 抽象的な要求が続くのに、マキコちゃんは「はーい」と軽く返事をした。
 まるで疲れを見せないし、不満の色も覗かせない、ある種の異常さを感じさせるプロの対応だった。
 ドキリと違和感を覚えた瞬間、休憩室での会話が頭をよぎる。物悲しそうな表情で、マキコちゃんは小さく呟いた。

“これだけ曲を作って、社会と闘ってる姿には、正直驚いてる”

 ブース内にいる彼女は、今、社会と闘っているのかもしれない。

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