【小説】 年末は感傷的になるのかもしれない。


「ヒロナ、お腹空かない? 年越し蕎麦でも茹でる?」
「ううん、いらない。ありがと。まだ年越しまで三日あるし」
 ココアを淹れるなり食事をすすめる母を、ヒロは押しとどめた。
 ハードなレコーディングスケジュールを乗り切った娘を、母なりに労ってくれているのだろう。今年は弟の高校受験があることもあり、母は台所で精を出している。

「あなたの高校受験の時は大変だった思い出があるけど、ユキトは楽勝そうよ?」
 ヒロナが居座るストーブの前からキッチンの様子を伺うことはできないが、母の後ろ姿から、なんの作業をしているのかは分かる。
 トントンと小気味いいリズムでタマネギを切る母は、ハナから蕎麦を茹でる気がなかったのだろう。コンロに鍋の姿は見当たらなかった。

「誰の血を引いたのか、私とは頭の作りが違うもん。ねえ、眼痛い」
 ヒロナは思わず、目を強く瞑った。
 タマネギがしみる痛みは、なんとも言い難い。
 目頭からジュワッと水が溢れてくるのを感じる。
 本来の防御機能として身体が反応したのがわかった。

「新鮮なのね」
「お母さん、痛くないの?」
「そりゃ痛いけど、もう、慣れたかな」
 あまりの痛さにヒロナは漫画を閉じ、「うーん」と唸りながら、うつ伏せに寝転がった。
 カーペットからはみ出た手足が、フローリングに触れる。
 体温のないヒンヤリした感触が妙に気持ちいい。
 料理とストーブで温まった部屋の中で、冬を感じた。

「てか私立なんか受けても大丈夫なの? 受かるかどうかは分からないけど、名門なんだだよ?」
 料理の音に耳を澄ませながら、ヒロナは尋ねた。

「だって、あなた、バンドで稼いでくれるんでしょ?」
「そうかもしれないけど、私の稼ぎなんてアルバイト代みたいなものよ?」
「誰だって仕事を始めたばっかりの頃は、お金がないものよ。そこから徐々に始めていくんだから」
 母の言葉にヒロナは黙って考えた。
 皮膚が厚くなった手のひらを撫でる。
 表層部分は、皮が厚くなりすぎて触れる程度では感触がない。
 続けてきたから、厚みを増したのだ。

「いつまで経っても稼げなかったら?」
 短い沈黙のあと、ヒロナは口を開いた。
 お金の話をしていたが、本当に聞きたいことは言葉の裏側にあった。
 才能。
 一体、自分にはなんの才能があるというのだ。
 音楽の才能もなければ、コツコツと職人のように技を磨く才能もない。
 ただ、手の皮だけが厚くなっていく。
 生み出す才能がないのに、クリエティブに興味があるチグハグの自分がいることにヒロナは不安を覚えていた。
 
「そうしたら、稼ぎ方を考え直せばいいだけよ。別に手段は一つってわけじゃないんだから。あなたにとって大学受験をしないことは大きな決断かもしれないけど、だからって道を一つに絞らなくてもいいのよ? お母さんだって、そうして仕事を変えてきたでしょ?」
 背中越しに話しているはずなのに、母の言葉が鮮明にヒロナの耳の奥に響く。
 そして、フライパンが香ばしい音をたて、食欲を刺激する香りが鼻腔をくすぐった。
 確かに母の言葉には重みがあった。
 母は美容の専門学校を卒業した後、どういうわけか単身イタリアに渡り、お面を専門にする彫刻家としての道を歩んできた。その後、映画やドラマ、広告のメイクアップに携わるようになり、今は化粧品開発、プロデュースをしている。
 途中、結婚、出産、離婚と一通りの道を進んだにも関わらず、母の生命力は衰えることはなく、むしろ大きくなっている。

「夢なんて、そう簡単に見つかるものじゃないわよ。何かを続けて、頑張った人にだけ与えられる宝物みたいなものなの」
 母の言葉を聞くうちに、父に耳朶を思いっきり引っ張られた記憶が蘇った。

“みんなって誰なんだよ。未知なる世界に、みんなはいねえんだ。一人ぼっちになったって、父ちゃんや母ちゃんは側にいるんだから。未知に飛び込めよ!”

 スイミングスクールが流行っていた頃、ヒロナは「みんな習ってるから、私も習いたい」と父に伝えた。その時、父は爆弾が破裂したように激怒した。
 あと一歩のところで殴られていたのではないかという恐怖体験は、ヒロナの辞書から「みんな」という言葉を削除させた。

 まさに、今、ヒロナは一人ぼっちになっている。
 バンドメンバーがいる。支えてくれるスタッフもいる。
 やりたいことができる環境を与えられ、仕事も順調に回り出している予感がある。
 暗中模索する自分の横に、父はいない。

 母の言葉にヒロナは返事をせず、再び「うーん」と唸り大きく伸びをした。
 タマネギの痛みは無くなっていたはずなのに、頬に水が流れた。

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