【小説】 チクリ、チクリ。
アキちゃんは、ぽけっとしていた。
現実の世界から遠く離れたところへ行っちゃったみたいに頬を緩ませ、眠そうな目をしている。
「アキー、そろそろ戻るよー!」
ミウはオール後の帰り道みたいな言い方だった。
高校最後のライブを終え、私たちは燃え尽きたような達成感を味わっていた。
脱力感を身体に染み込ませたまま、私たちは振り絞るように立ち上がる。
「そうだよ、アキちゃん、リオンくんのピアノ始まっちゃう!」
と私。自分で言っておきながら、チクリと胸が痛む。
「あ! そうだ! ご、ごめん!」
突然ハッとしたような顔になり、急いでギターを背負おうとするアキちゃんに「いや、まだ音楽祭は続くんだから、楽屋に置きっぱで大丈夫でしょ」と笑うミウ。「どんだけピアノ聴きたいのよ」と、さらにミウ。チクリ、チクリと、痛む私。
客席に戻ると会場は暗く、有志企画最後の演奏の準備が始まっていた。
ボンヤリとした暗闇の中で、ステージ中央にグランドピアノが移動していくのが見える。ついさっきまで私たちはあそこにいたはずなのに、まるで別世界に来たような感じがした。客席とステージとの間には、見えない壁があるのだろう。時空の裂け目のような、分厚い壁が。
そんな壁を確信させるほど、客席はザワザワと飽きた空気が漂っていた。あれだけライブは盛り上がっていたはずなのに、午後の授業でよく見られる帰りたいムードが充満している。
“そっか。みんな、飽きてたからこそ、バンドが盛り上がったのかもしれない。自分たちが会場の空気を変えたのではなく、客席側から変わろうとしてくれたんだ”
「お疲れ」「カッコよかったよ」とクラスメイトが労いの言葉をかけてくれる中、ヒロナは妙に納得していた。
バンドのライブは、お客さんが見てるだけではなく、参加しなければいけなくなる。コールアンドレスポンスがあったり、手を振り上げたり。
だから、私たちは客席のストレス発散的なポジションになっていたのかもしれない。それくらい、みんな、飽きていた。
「有志企画最後を務めるのは、一年五組、森口リオンくんによるピアノ演奏です。曲は一曲はショパン、練習曲作品10 第1番。リスト、愛の夢です」
場内アナウンスが入ると、会場はさらに暗くなるが、あまり空気は変わらない。一拍置いてから、ふわっとステージが明るくなり、静かに登場する男。
森口リオン。
彼は、客席など一切見えていないみたいに、音もなく、大きなピアノの前に座った。ヒロナはチクリと胸が痛んだ。
彼の視野にはピアノしか見えていない。
楽屋廊下ですれ違った時と同じ感じ。
ふと横を見ると、アキちゃんも彼と同じ目をしていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?