見出し画像

【小説】 目が合った。


 カレー屋さんに入った。別によく行く店でもない。たまたま見つけた看板に「テレビで紹介されました」と書いてあったから。ウソ。本当は、その瞬間に、私のお腹が大きくなったから。リオンくんは、クスッと笑って、「ご飯たべようか?」と言ってくれたんだ。
 居心地のいい小さなお店。薄く流れるBGMには、どこかの国の民謡がかかっていた。席に着くと安心したように、私のお腹は何度も空腹を訴えた。飛行機が通過したみたいな轟音。いやいや、目の前にはリオンくんがいるんだぞ。もう少し、女の子らしくしてくれよ。私はギュウっとお腹をへっこませて、両手で必死で押さえ込んだ。BGM上げてほしい。

「ナン食べるの久しぶりかもしれない」

 腹の虫のことで頭がいっぱいになっていたが、リオンくんの言葉を聞いて初めて、ここがインドカレーのお店だと気付いた。よくみると厨房には体躯の良いインド人のコックさんが何人もいた。唯一のホールスタッフが日本人女性だったから、まるで気付かなかったが、彼女は、きっと誰かの奥さんなのだろう。そう分かった途端に、民謡がインド民謡に変わり、香りがインドカレーのスパイシーな匂いへ変換された。なんて、単純な脳みそだろうか。
 私は色々な野菜が入ったもの、リオンくんはチキンが入った辛いカレーを頼んだ。あんまり話はしなくて、黙々とカレーを口に頬張った。それぞれが色々なことを考えているみたいだった。きっとリオンくんはピアノのこと。私は……、お腹が満たされていく幸福感に包まれていた。ご飯は何を食べるかではなくて、誰と食べるか、だよね。好きな人と一緒に食べる食事は、格別に美味しかった。そこに言葉は要らない。だって、美味しいを共有するのが、食事の会話でしょう。

「美味しいね」

 私は言った。
 彼は口の端にカレーをつけたまま、「ね!」と微笑んだ。
 鳥肌。全身が震える。やっと、この人と、「ね」だけで繋がることができた!
 彼の口についたカレーには触れず、私は自分の口元を拭いた。すると、彼も真似するように、口元を拭いた。下唇が少し厚い、綺麗な唇が現れた。水を飲むタイミングとか、口を拭くタイミングが同じになるのは相性がいい証拠って、言わなかったっけ? そんなことを考えながら、つい私はリオンくんの口元に見惚れてしまった。

「ピアノね。オレ、ピアノで留学したいんだ」  

 リオンくんは小さく唇を動かした。そう言ってから、ラッシーを飲んだ。私も反射的に同じくラッシーを手に取った。

「だけど、やっぱり、恐いし自信もなくて……」

 リオンくんは厨房の奥に目をやった。パンパンと生地を伸ばす小気味の良い音が聞こえてくる。だから、私も同じ方向を見て、言った。

「大丈夫だよ」

 厨房のコックさんと、一瞬、目が合った。

「私はリオンくんのピアノが大好きだから」

 そう言ったあと、自分で訳がわからなくなった。
 私が好きだから大丈夫って、どういうこと!?
 コックさんがニヤリと笑った気がした。
 でも、本気でそう思っている自分がいる。どれだけ本人が不安になったとしても、私はリオンくんのピアノが好き。音楽では、お腹は満たされないし、世の中の役には立たないかもしれない。でも、彼のピアノがあるだけで、私の悩みは解決される。喧嘩だって、きっと収まる。本気でそう思っている。それは真実だった。

 リオンくんと、目が合った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?