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Chapter31


 「やっぱり、ハルと結婚はできない」
 直接的にはならないだろうと思っていても、別れ話の時だけは自分の気持ちをまっすぐと伝えることができた。

 最後に別れ話をしたのは1年半前だっただろうか・・・。
 社内恋愛がバレて事実上のクビになり、心を病んでいた時だ。
 自分も承知だったとはいえ、上司から「君はルールを破ったんだだよね?」と暗に圧をかけられることに思いの外、傷ついてしまった。
 いつの間にか、会社に属していることが安心材料になっていたのだと思う。組織から弾き出されることで、世界からも否定された気分になってしまった。
 何もかもを捨て去って逃げ出したかった。
 それで、感情のまま彼女に別れを告げたのだ。
 あの時の彼女は、恐ろしく冷静だった。

 平気な顔をして鋭利な言葉を使うボクに対して、彼女は素手で立ち向かってきた。
 彼女は負けず嫌いな人で、「悔しい」という気持ちが湧き上がっている時は、絶対に妥協をしない。
 情に訴えかけるというだけのプレゼンにコンペで負けた経験。実績よりも、人の粗探しをすることで簡単にのしあがっていくことが出来てしまう現実を目の当たりにしたことが、彼女に理論を武装させることになった。
 案の定、「会社にバレたから別れたい」「何もか捨て去りたい」「ボクたちは間違っていた」という中身のない感情論を許さなかった。
 感情や精神は時の経過とともに落ち着きを取り戻し、やがて成熟されていく。だから、刹那的な気持ちや、反射的な意見には絶対に屈しなかった。
 別れ話をしている恋人同士とは思えないほど冷静に打開策を提示した。
 感情的になっているボクは、落ち着き払っている彼女にさらに腹が立ってしまい、さらに攻撃を仕掛けてしまうのだが、全ていなされてしまう。
 そして、長期戦に持ち込まれ、結局、時間を置いて考え直すという結論に行き着くのだ。

 しかし、今度は違う。
 時が経ち、転職先で沢山の出会いを経験し、ボクは変わった。
 理論で対抗できるし、準備をしてきた。

 なぜ結婚できないのか。
 まずは自分の中の結婚観を説明し、今までの自分たちの関係性を改めて整理する。齟齬をどう埋めていくかの持論を述べ、相手が質問してくるであろうことをリストアップし、それぞれの最適解を用意しておく。
 そして、結婚ができないならば、これから先、自分たちはどうしていきたいかという疑問を投げかけるのだ。
 理論武装された別れ話を彼女はどんな気持ちで聞くことになるのだろうか。
 昔話してくれた念でボクを不幸に貶めるのだろうか。
 若干の不安も抱きながら、彼女をドトールに呼び出した。

 「あのLINEみて嫌な予感は色々してたよ」
 まずは雑談をして、お互いにアイスコーヒーで喉を潤した。
 いつものように近況報告や、軽い愚痴などをこぼしつつ、タイミングを見計らい、「それでさ」と本題を切り出すと、彼女は目を細めながら言った。
 彼女の疑惑の目に怯むことなく、準備してきたことを淡々と伝えると、彼女は目を見開いた。
 どうやらボクの本質的な変化に気付いたようだ。
 彼女は口を挟むことなく、最後までボクの話を聞くと軽く息を吐くと、静かに口を開いた。

 「私を忘れることはできる?」
 あろうことか、彼女は自分が最も嫌う感情論を問いかけてきたのだ。
 逆にいうと、「忘れることが出来るなら別れてもいい」とも捉えることができるが、そんなことは質問リストにも用意していなかったため、狼狽した。
 グズグズしながら考えを整理しようとしていると、彼女は畳み掛けてきた。

 「別れるなら、忘れなきゃ。後悔するよ?」
 彼女の目は本気だった。目頭が赤くなり、眉毛がピクピクと揺れている。
 しかし、瞳の奥の方では、どこかでこの会話を楽しもうとしている気がした。
 強い刺激を求めている、飢えた表情といってもいい。

 彼女の言葉を聞いて、確信したことがある。

 どれだけ別れる理屈を揃えても、根底にある彼女への気持ちは変わらない。
 ボクは、結局、変化を求めていただけなのだ。
 それは彼女も同じだろう。
 
 結婚の問題も時間をかけて解決されるはずだ。
 そして、次に来るのは離婚の危機かもしれない。
 もしかしたら子どもの話の可能性もある。

 何が起こるかは分からないが、ボクらの攻防は、たぶん、一生続くんだと思う。
  
 だって、変化したいボクと、刺激を求めている彼女なのだ。

 遠くで今年最初の蝉の声が聞こえた。

 ソファでは気持ち良さそうに藤野ハルが眠っている。
 彼女の寝顔は、ボクにしか読むことができない、手紙なのだ。
 手紙を読んでいると、ボクまで一緒に寝たくなった。

 

 終わり。


 1時間54分 1890字
 

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