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【小説】 亀裂


 私がスタジオに入ると、空気が変わった。いや、勝手に私がそう感じてしまったのかもしれない。人の視線が槍のように突き刺さる。そこに負の感情があればまだしも、飛んできたのは気遣いの視線だった。無理して繕うようにするから、かえって澱んだ空気が漂っている。
 鈍くて重い空気をかき分けて、「おはようございます」と声を出すと、新しく入ったマネージャーのコガちゃんが、「おはようございます」と朗らかな声をあげた。その隣にいた新入社員のマコちゃんは、ヘタクソな作り笑顔でペコリと会釈。マコちゃんの目の奥には、嘲笑があるようだった。

「ずいぶん人気者になっちゃったんだねぇ」

 先にスタジオに来ていたミウは、からかうように言った。いつもと変わらない姿に、私の体内に溜まった空気がプシュウと抜けていく。絡まった糸が解けていくようだった。最初にメールをくれたのもミウだ。いつも私の側にいてくれる存在、幼馴染、親友、大切な人。

「ごめんなさい、迷惑かけて!」

 私の口からスッと言葉が出てきた。それもずいぶん大きなボリュームで。声に引っ張られるように頭が自然と下がり、腰が90度曲がっていた。

「全然、迷惑なんてないよ。むしろバンドが注目されちゃって、ありがとって感じ。てか、最近、ヒロナの作曲スキルが異常なくらい上がっている理由がこれで分かったわ」

 そう言って、ミウはニヤリと笑った。高校時代を思い出す。あの頃は、ミウに彼氏ができたことを、私がからかっていたんだっけ。

「リオンくんパワー、偉大すぎるね。完全にヒロナはピアノの色が出来てるし。むしろ、このままうまくいってくれなかった困るよ。え、もう、結構長いの?」
「いやいや、まだ、一年も経ってないよ。もうすぐかな」
「わー、いいなあいいなあ。私、リオンくんのピアノをまともに聴いたの、音楽祭の時くらいかも!」

 ミウの優しさに、胸が熱くなっていた。平気な顔でなんでも聞いてくれるから、タブーの空気が打ち消される。心のモヤモヤが少しずつ晴れていく。

「確かに、アタシもないかもー!」

 ここまで緊張の色を覗かせていたマキコちゃんが、ようやく会話に入ってきて、また一段と空気が明るくなった。バンドをここまで引っ張ってきた一番の功労者が、内心、何を考えているかは分からない。でも、その姿勢が嬉しかった。

「てか聞いてくださいよ。アタシも完全に記者にマークされてて、ご飯に行くだけで気配感じますもん。別に何もないからいいけど、全然、気を抜けない。本当、何がしたいのアレ」
「まあ、あんたは今、誰もが狙ってるだろうね」
「マジで迷惑」
「にしては、嬉しそうだけど?」
「本当やめて、ミウさん。みんなだったら、絶対発狂してるから!」
「ごめんごめん。それは、そうだわ。ヒロナですら、こんなにくらってるのにね!」

 ヘタに励まされるよりも、よっぽど温かい。
 気付けば、私は笑っていた。なんだか、久しぶりに笑った気がした。
 ホロホロと世界が溶け出していくような安心感が胸の底に宿り始めた時、マネージャーのコガちゃんが口を開いた。

「今、谷山さんから連絡あって、今日は体調不良で休みたいとのことです」

 この日、アキちゃんはスタジオに現れなかった。
 私は、バンドに亀裂が入る音を聞いた気がした。

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