【小説】 ずっと大晦日
リビングに戻ると、母はストーブの前で丸くなりながら読書をしていた。
すっかり老眼鏡が必須アイテムになっているらしく、険しい顔をしながらページをめくる姿は、将来の自分を見ているみたいだ。
いつまでも元気でいると思っている母にも、髪の毛には白髪の割合が増え、白髪染めした部分が茶色く光っているのが遠目からも分かった。
テレビも音楽もかけず、静謐な時間が、そこには広がっている。
「夜中にお蕎麦を食べるなら、夕食は菓子飯でいい?」
母は人の気配を察したのか、本から視線を外さずに訪ねた。
この手の質問には、拒否権が与えられていない。
「いいよ、なんかあるの?」
「冷蔵庫にチーズケーキがあるから、それ食べて」
言葉に誘導されるように冷蔵庫を開けると、ビニールに包まれた箱を見つけた。ケーキと言っても、いわゆる三角に分かれた一般的なモノではない。スーパーに行けばいつでも手に入る、カステラのような長方形をしたものである。
安価だが、我が家ではこれがお気に入りで、自分の食べたいサイズに切り分けて食べるのだ。
パッケージを見ただけなのに、唾液腺が刺激され、顎の付け根がきゅうっと痛くなった。
「ユキトにも持っていってあげて」
「分かった」
ヒロナは早速、ミルクティーを作る準備に移る。
人の身体は面白いもので、ご馳走にありつけると分かった途端に、お腹がグウグウと音を鳴らした。「まだか、まだか」と、自分ではない誰かに急かされているような気分になる。
ユキトは「サンキュー」の一言を呟くと、ヒロナには目もくれず参考書の続きに取り掛かった。
一番身近な存在のはずなのに、自分とは全く違う道を進んでいることに感心してしまう。勉強に没頭できるなんて、一体、姉のどんな背中を見てきたというのだ。
弟を見ていると、女と男の違い以上の差を感じてしまう。
「少年よ、大志を抱け」と言葉を残して部屋を後にしたが、ピクリとも反応する気配はなかった。
相変わらず定位置で本を読む母の背中と、弟の残像が重なる。
本と参考書。
向き合っている対象は違えど、その姿勢は同じに見えた。
ヒロナは漫画を手に取り、チーズケーキと紅茶をお供にした優雅な夕食を過ごした。
しっとりしたクリームチーズが口の中で溶け、芳醇な香りが鼻腔を通り過ぎる。ミルクティーとの相性も良く、ケーキの甘さがより引き立つのだ。
大晦日の空気は、まだ感じない。
しかし、時計は進む。刻々と。
リビングにはゴオオというストーブの音だけが響いていた。
1時間7分 1000字
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