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【小説】 悲愴の歌


 ベッドに倒れ込んだ。固い。体温がない。ホテルのベッド。部屋がムシムシする。壁にくっついたエアコンのリモコンには送風の文字が見えた。めんどくさい。目を閉じてしまうと、今日のライブのことを思い出してしまうから、起き上がってお風呂の準備をし、エアコンを冷房に切り替える。何か音楽が聴きたい。iiPodをみると充電が切れていた。カチカチカチと、つかないディスプレイに向かって何度もボタンを押す。疲れが噴き出すようなため息が漏れる。充電器にさす。アキちゃんの歌声が耳朶を打つ。振り払うようにかぶりを振るほど、歌声が大きくなった。ほとばしるエネルギー。一人だけ異次元にいるみたいに、輝いていた。世界がアキちゃんを見つけた瞬間だったと思う。正直、私は、感動してしまった。

 入学式の帰り道を思い出した。初めてアキちゃんの歌声に出会った日。大きなクスノキがある公園で、彼女は一人、歌っていた。何かを届けるために。何かを得るために。何かを変えるために歌っていた。そんな彼女に感動した私は、勝手に彼女の人生を変えてしまった。自分はなんの楽器もできないのにバンドを結成し、余計なおせっかいみたいに、彼女の声を広めようとした。
 今日、その夢が叶った気がした。

 ちゃぷん、と綺麗な水の音が響く。お湯の中には私の足。私の足が、音を奏でた。するんと、身体を湯船に浸すと、さらに音が重なる。ぽちゃん。ズズズ。肌と浴槽がこすれる音。お湯を掬って顔にかける。ばちゃばちゃ。肌が水をはじいてる。小さな胸の間に見える、ポツポツ。あせも。私は、ポツポツを撫でた。

 アキちゃんは、私たちに遠慮していたのかもしれない。ヘタクソな演奏しかできない私たちに合わせてくれていたのかもな。それが、今日のライブで噴き出した。今まで我慢してたものが、爆発した。たぶん、そういうことだと思う。そのキッカケが、リオンくんへの恋心だったんだね。
 今日、アキちゃんは、自分のためだけに歌っていた。
 透明な細い声。優しくて冷たい声。秋の終わりに吹く風みたいな綺麗な声。でも今日は少し尖ってた。胸をえぐるような、悲しみがあった。あの頃には転げ落ちるまいと、必死に叫んでいるようだった。いや、もしかしたら、戻りたかったのかもしれない。分からない。

 音楽のインスピレーションが湧いてくる。悲しい曲。立ちあがろうとする曲。強い曲。爽やかではない、ロックなテイスト。でも、そこにもピアノが欲しくなる。リオンくんのピアノが欲しくなる。アキちゃんが恋した、彼のピアノが欲しい。私が恋した、彼のピアノが欲しい。

 鼻歌をすぐ録音しようとお風呂を上がる。ふんふんふん、とボイスレコーダーに歌いかける。たったワンフレーズだけど、この繰り返し。iPodに電源がついていたから、イヤホンをつけて、濡れないようにお風呂に戻る。これで何個もイヤホンを潰してきた。早く防水機能のモノが出たらいいのに。

 ピアノの音色が聴こえてくる。ヴェートーベン。ピアノ・ソナタ 第8番 ハ長調 作品13《悲愴》という文字がディスプレイに表示されていた。

「悲愴か、悲愴ね……」

 私は、悲愴の湯船の中で、自分を残酷な鬼だと思ってしまった。

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