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【小説】 それぞれの前進


 たぶん、キーボードのタッチが上手くなった。といっても、ピアニスト的な上手さではない。以前の自分よりも上手くなった、というだけ。我ながら音楽は多作で、子どもが与えられたオモチャで遊ぶようにキーボードをひたすら叩いた。
 初めてドラムを叩いた時の興奮とは、まるで違う。本当に遊び感覚。ゲーム感覚なのだ。パソコン画面には幾つものトラックが重なり、ギター、ベース、ドラム、キーボードの絵が浮かんでいる。音の長さによって、それぞれの絵の横に、点や線が入力されていく。これで音楽が出来てしまうのだから、本当に不思議。休みなく、一日中パソコンとにらめっこするする日々が続いたおかげで、今ではすっかりお手のものとなった。とはいえ、まだまだなんだけど。

 私が曲作りに慣れるまでの速さを追い越すように、ミウのピアノは上達した。客前で披露するというプレッシャーを力に変え、全国ツアー中に更なる成長を遂げている。加えて目に見えない練習量が彼女を支えているのだろう。ツアーも終盤に差し掛かった今、ミウに不安な顔は一切なかった。
 ミウ曰く、ピアノとキーボードは似てるけど別の競技だと言ってもいいらしい。一番の違いは鍵盤のタッチで、弾き方によって音の強弱をつけられるピアノに対して、キーボードにはそれがない。それでもオルガンほどの画一的な難しさがあるということでもないらしく、ボタン一つでピアノ風にもなるし、エフェクトをかければ幅のある表現ができるという強みもある。ある一曲をひたすらに弾き込み、さらには別でピアノのレッスンにも通い出したミウは、もう、どっぷりピアノの世界にハマっていた。

 そして、ミウがキーボードを担当することによって、ベースを弾かされることになったアキちゃんもまた、別世界の住民にしっかり染まっていた。「心臓の音を刻んでるみたい」と、か細い指で太い弦を力一杯弾く姿は勇ましい。アキちゃんがまとう浮世離れした独特の空気は、本当に自分の心臓を叩いている化身なのではないか、と思わせてくれる。元々生活に根付いていたギターとは違い、ベースには弾いてる感覚があるらしく、それが彼女に生きてる実感を与えたのかもしれない。

 唯一、楽器コンバートのなかったマキコちゃんは、バンドの顔として堂々と真ん中に君臨してくれている。安定感は日を追うごとに増していき、彼女の存在の大きさがあるからこそ、バンドとしても挑戦できるも増えている。今年は受験を控えているというのに、この過酷なスケジュールに嫌な顔せず、学校生活とバンドを両立させているスーパーガール。完璧主義に磨きがかかったことを受け、「女優」というニックネームから、「プロ」に変わった。

 この全国ツアーは、私たちをそれぞれに前進させた。
 恋愛問題だって、結局は自分の内側の話だから、自分さえ変わってしまえば世界は変わる。昨日の自分と今日の自分が違うように、世界はたった少しの意識で変わるのだ。森口リオンを吹っ切れた私は、少し大人になった気がした。少しだけね。

 あと少しで飛行機は下降体制に入るらしく、耳がキンキン痛かった。何度も唾を飲み込んだり、飴を舐める。雲の下には緑が広がっていて、ブロッコリーみたいにもふもふしてるから飛び込みたくなる。
 座席テーブルの上にはボイスレコーダー、ノート、ペン。
 自分で録った鼻歌に、出来た歌詞をハメていく。
 いつでもどこでも、こんな感じ。
 すっかり、こんなところまで来てしまった。
 もう、後には戻れないかもしれない、と思った。



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