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igoku本制作プロセス | 第2話 震災、復興、大きな挫折

皆さん、こんにちは。
福島県いわき市の市職員イガリと申します。2019年に、「いわきの地域包括ケア igoku(いごく)」というプロジェクトで、ありがたいことに、グッドデザイン金賞を頂くことができました。

調子に乗った私(たち)は、2020年にクラファンに挑戦し、igokuについての本を制作することに。

言い出しっぺの私イガリは、自分の執筆パートを何回かに分けて、このnoteで公開しながら、制作していこうと思っていますの第2回目。第一話はコチラ

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行政のお金の使い方

4年在籍した公園緑地課のあと、2009年には財政課という、市の予算を担う部署に配属となりました。2009ー2012年と、ここでも4年在籍したので、財政課在籍中に震災を経験しました。震災直後の大変な思いもさることながら、復興過程における土砂降りのような多額の復興予算の中で、この使い方は果たして何のためになっているんだろう、効果的なんだろうかというのを、この時期何度も目の当たりにしたり、考えたりしました。

財政課も他の部署と同じく基本的に3年で異動になるので、土木・教育・福祉といった担当する部門を1年ごとに回していくという形をとっていました。それが当時の僕からしたら、「1年しかやってないからわからなかったんです」という言い訳の装置にしか感じられなくて、予算の配分がどうしても無責任なものになってしまうんではないかと思ったんです。だから僕は「1つの部門を2年やらせてください」というわがままなオーダーを出したので、土木部門を2年、福祉部門を2年担当しました。要は自分がつけた予算がどう使われたのかを見て、次年度の予算を考えられるという、当たり前のPDCAを回したいと思ったんです。

土木部門を担当している途中に、震災が来て自分がつけた予算や、これまでいわき市の土木が培ってきたものが全部ぶっ壊れた瞬間も見ました。
当時のいわきは震災や原発事故で一時的に避難していた人たちが戻ってくる拠点になっていて、どんどん人が流入して増加する人口と、いわきが震災で負ったダメージからの回復とのギャップが生まれていたんです。それをどう埋めていくかというのは、どこにも先例がなかったのでかなり道なき道で、国から降りてくる金は渡せても、何年後かに振り返ってみた時、あの金はどこに行って、どうなっちゃったんだろうというのを多く目にしました。お金の使い方・使われ方みたいなものについて、震災後の巨額な復興予算の激流の中で、すごく考えるようになりました。

ー 復興省の取り組みを、当時のローカルの職員がどう受け止めていたかというのは、なかなか聞こえてこなくて。復興省が巨額の金を自治体にどんどん投げて、それをローカルの職員が今まで考えたことのない予算を、めちゃくちゃチェックされながら執行するというところは、かなり厳しいものがあったんですか。 ー

国と市町村という地方自治体が直でぶつかれた、話し合えたという意味では、良い面もあると思いますが、いわきぐらいの規模の自治体ならまだしも、規模の小さい町村は、職員の数などのリソースの点からしても、また前代未聞の災難だったという点からしても、難しい面の方が多かったと思います。だから、国は自分たちがリードをしていかなければいかないと思い、町村にどんどん介入していけばいくほど、そこに暮らしていく人たちからすると、私たちの気持ちや暮らしとは何か違う、寄り添ってもらえてないんじゃないかという違和感を感じて、離れていってしまうという、掛け違いやジレンマのようなものが起きていたかもしれません。

被災沿岸地域の復興まちづくり

2013年には、市政全体のディレクションを担当する行政経営課(現:政策企画課)という部署に配属され、ここでいわき市全体の総合計画の改定と、被災沿岸地域の復興まちづくりに携わっていくことになりました。この時は、被災地域のハード面での回復は進んでいたんですが、どうも人々の暮らしの不満が収まらないという状況だったんです。最も被害が大きかった沼ノ内・薄磯・豊間地域の住人と市の職員の話し合いはかなり難航していて、僕は土木ハード系の部署を経験していたので、沼ノ内・薄磯・豊間地域の担当に、追加で任命されました。本業としての行政経営課としての仕事に加え、週2・3回沼ノ内・薄磯・豊間地域に行くというのを決めて、地域の人と一緒に復興計画を進めていきました。

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「とよま地区復興未来計画」の表紙

「とよま地区復興未来計画」といわき市全体の総合計画を同時期に手がけました。構成からレイアウト、全ページの文章まで、基本的には私が担当しました。今回igoku本執筆にあたり、自分のキャリアを振り返るのに、久しぶりにダウンロードして冷静に見ると、役所の人間が書くとは思えない文章だなあ、周りの同僚上司は苦労しただろうなあと申し訳なく思いましたw。
例えば、市の総合計画は冒頭の方針から「震災前に戻すことがゴールではなく、そこがスタートラインです」と大仰に始めているし(笑)。
地域包括ケアのページには「住み慣れた地域で暮らしたいと思う人が、だれでも住み慣れた地域で暮らし続けられる『いわき』を築きます」と書かれていて、igokuで言いたかったことの"種"みたいなものが、この時から既に萌芽として書かれています。
振り返ると、公園緑地課での樹木のパンフレット制作や復興計画・市の総合計画に携わったことで、人に見やすい、伝わりやすい発信とはどういうことか、またしっかりと地域に入ることなどigokuで大切にしていることのベースが培われていたんだなと思います。

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いわき市総合計画

大きな挫折

この行政経営課時代に経験した大きな挫折の話を一つ。復興計画の策定まで担当し、地区の方々と付き合い続けた、いわき市最大の被災地「とよま」地区。その地区で被災した"豊間中学校"を取り壊すのではなく、震災メモリアル施設にしてはどうかというアイデアがありました。震災当日豊間中学校では卒業式が行われていて、3年生の教室には寄せ書きが書かれた黒板がそのまま残っているような状態でした。被災からの復興で、全てが変わっていく"とよま”の街で、この校舎を残すことが、かつての街を、あの日を、そして震災の教訓を忘れないことに大きな役割を果たすのではないかと考えたんです。

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上:旧豊間中学校
中:同中学校に残された、2011年3月11日の午前中に書かれた寄せ書き黒板
下:官民超えて、とよま地区の復興計画に携わった皆さん

地元の方々と話し合いを重ねて、福島県の部署の方々の協力で、建物の検査から旧中学校の遺構としての活用のための設計書も作ってもらいました。最後に、地域の代表者の方との会議を行い、いわき市としてはこういう形で旧中学校を残し活用していきたいという思いを話して、最終的には地域の方々に投票のような形でしてもらったのですが、わずかな差で、旧中学校を残さないという判断となり、現在ある、震災メモリアル施設の整備ということになりました。

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「とよま地区復興未来計画」の「忘れない」のページ
豊間中学校の遺構化否決後に、写真を差し替えた。

このことは、自分にとって本当に大きな出来事、経験、挫折でした。その時の上司や周りの人に「イガリ君の頭の中にあるイメージは、地域の人に伝わってたの?」と言われた際に、ハッと思いました。地域の代表の方々に自分が描いているイメージや思いを伝えられなかったんじゃないか、伝わっていなかったんじゃないか。そのイメージの共有がないままに、ややもすると地域を二分(にぶん)してしまうような意思決定の諮り方をしてしまったのかもしれない。自分が”こうしたい”と思ったことを他の人にもっと伝える力があったら、あの時説明の資料1枚でも見え方や伝え方が違っていたら、話が違っていたのかもしれないという、この時の後悔が、igokuの制作やチームの組み方に、確実につながっている、影響していると思います。自分の頭の中にあるイメージを自分だけでは表現しきれないかもしれないということを、この事例で気付き、身をもって学びました。

行政内部をどう飛び越える?

もう少しだけ、igoku前史の話をさせてください。
僕が改定を担当した市総合基本計画は、改定前は220ページあり、自分の部署の職員1人1人に改定前の計画を全て読んだかを尋ねたところ、全ページ読んだのはたった1人だけでした。また市民に対して「市の総合基本計画を知っていますか?」というアンケートを行ったところ、認知率は3%程度でした。担当部署の人間ですら全てを読んでない計画が市民に届くわけがないですよね。この計画を改定する担当になった時に、「たった3%の人にしか知られてない計画の文言や内容について、内輪で何百時間打合せしているんだ」と感じました。

震災後はお金がじゃぶじゃぶ降りてきたけど、その反動も含めて、今後は人も予算も苦しくなるフェーズがやってくるだろうというのは、行政の財政や人事、経営を担当したことがある人は多かれ少なかれ分かっていたことです。これからは少子高齢化で、前まで2億円かけていた事業に、これからはもっと少ない額で2億円相当の効果額は得なきゃいけないということになってくる。そういうことを1人1人の職員が意識してやっていかないと、いつか回らなくなる。そういう感覚や視点も含めると、220ページの計画の役所内部だけの閉ざされた見直しは、それにかかる時間と人件費などのコストが、”効果”と見合ってないのではないかと当時も今も思いました。

そんな思いから、
・”読んでみようかな”、”手に取ってみようかな”と少しでも思ってもらえるように、
・(行政の)百科事典ではなく、市民と共有できる計画となるように、
・伝えるために削ぎ落とす、
・役所の中の限られたリソース(人や時間)を集中するために、
こんなことを考え、乱暴だったかもしれないけど、改定前220ページあった計画を半分以下の100ページほどにグッとスリムにしました。
役所の”前例踏襲”を逆手に取れれば、ここでグッと計画をスリムにできれば、この後の計画もスリムになるだろうという密かな狙いも持っていました。

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改定版のいわき市後期基本計画
左側が大きめの分野、
右頁が、それを構成する”項目”と、具体な”主な取組”という形で、行政の様々な分野を見開き2頁で簡潔にまとめようとしました。

とはいえ、こんな(乱暴な)計画改定、役所内部ではめちゃくちゃ揉めました。220ページを半分の100ページにするわけですから、何かは削ぎ落とさないといけない。各部署にとっては、市の最上位計画である「総合計画」に自分たちの取り組みが「記載」されていることがすごく大事。金科玉条の如く守ってきた前計画とそこに記載された自分たちの取り組み。その多くが、謎のスリム化によって、どんどん削られ、簡素化されていってしまうのですから、たまったもんではありません。制作過程で、多分全部のページ、全部の部署からクレームが来たと記憶しています。

フェーズやレイヤーの認識のズレかもしれませんが、一体、この計画は”誰のため”のものなんだろう?と当時思いました。この計画に自分たちの取り組みが記載されていることと、市民の暮らし、更にはその手前として、この計画の存在と内容を市民と共有する。
「前の計画に書いてあったように戻せ!」
そんなクレームを受けながら、役所内の正しさと伝えるためのシンプル化の難しさを、これまた身をもって痛感することとなりました。

僕は当時から、役所の中の人間はもっと地域に出て行ってコミュニケーターになり、それを面白がって発信していったら、もっと市民も巻き込まれて、オープンなアクションになっていくはずなのに、役所はどうも内輪の中でやっていってしまうということにも問題を感じていました。
だって、”内輪”でやった方がラクだから。予算があれば、”外注”という形で、業務として発注できる。そこには、発注⇄請負の構図があるだけなので、自分たちの思う通りにできます。でも、市民をはじめ、多くのステークホルダーの皆さんと、力とお金と時間を出し合うのは大変だし、自分たちの思う通りにはいかないことも多い。この半ば習慣化した”内向きのベクトル”を大きく変える端緒としては、まずは、たまに出てくる、たった一人から始まる熱狂や狂気のようなパッションかもしれません。

途中途中で、ガス抜き的に、市民の人を呼んで、広く意見を取り入れていますというポーズは取るけど、役所の内部の理屈が優先されたり、そのプロセスやそもそもの目的を外に開かずして、それを市民の人が自分ごと化していけるかというと、現実的には厳しいですよね。この計画においても、役所の中だけの理屈や視点と、市民の日々の暮らしや市民の皆さんが思っていることの間には、大きなずれがあるんじゃないかというのをずっと感じていました。

だから役所内での協議や予算獲得や根回しなど、「中」を頑張って何かをやり遂げていくよりも、次に自分がいろいろな事業ができる部署に行ったら、軸足は「外」に置いて、役所の外のいろいろな人たちに会いに行きたいなと心の底から思っていました。

そんな経験と思いを持てたタイミングで、いよいよ、保健福祉部地域包括ケア推進課へ異動となるのです。

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ここまでお読み頂いた方が、もしいたとしたら、本当にどうもありがとうございましたー。何ヶ月後かに、igoku本が晴れて世に出ることになりましたら、読み比べてみると、おもろいかもしれません。あざますー。

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