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よい練習ができた日

しばらくたってから読むと、気恥ずかしいのだろうなと思いながらも、それが成長の記録だと思って書きます。昨日に引き続き即興についてです。

一か月ぐらい前でしたか、友人( https://note.com/igarassi/n/n05c05e87818d )宛の書簡の中で次のように書きました。

>記憶しない・記憶がないというのは、今・この瞬間を生き切る
>ための重要な要素なのかなとも思いました。
>記憶のオンオフ技術(記憶しないというよりも、記憶を参照し
>ない技術)を身につけたら、世界が変わりそうです。

当のいがらっし、いつだって指の向くままタイプしているだけなので、そんなことを書いたことすら覚えていませんでした。
が、友人がこの考えを話題に上げてくださいました。たいへん光栄なことですし、「へえ?わたし、いいこと言っちゃった?」的な嬉しさもありました。えへん。

今日もひとりで即興練習。繰り返し行っていると、どうしても流れに癖が出てきてしまい、次第に定型化しそうになる。踊りながら、「チキショウ、つまらねえ」とつぶやく。

そんな時に、「記憶を参照するな」と自戒します。すると見たこともないことが始まる。(まあ、自分では見えないので、やったことがないこと、と言った方がいいですね。)
そんなことを繰り返していたら、参照している時としていない時の違いが自分でわかるようになってきました。これは自分としては大収穫。踊っている最中でもわかりますが、ビデオ撮りしてみると、一目瞭然。
いままでは参照していても気づかずに、つまらないことをだらだら垂れ流していたのだと思います。おお恥ずかしい。振り付けてあったにしても、即興性を保持しておかないと、死んだ蛇が木の枝にぶる下がっているみたいになるのだと思います。
(免責事項:参照している・していないがわかるようになったからと言って、必ずしも面白いダンスをお届けできるわけではないので、いがらっしのダンスがつまらなくても、見てしまったお時間はお返しできません。)

もう一つの今日の課題は、動きたくない時には動かない。身体ちゃんが動きたがらない時は、無理に動かない。無理に空間や時間を埋めようとしない。無理に動くのは、いがらっしの貧相な自我の命令でしかないから。身体ちゃんを信じよう。
なぜかこれは、記憶を参照しないのと表裏一体のようで、これができない「から」空白が辛くなって参照してしまうというか、参照してしまう「から」身体への信頼の優先順位が下がってしまうというか。

ちょっと踊りすぎたから、明日は休憩。

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