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何もしない権利だってあるんです vol.548

先日、組合活動の一環として第36次神奈川私学教育研究集会に参加してきました。

そこでの早稲田大学名誉教授の増山均先生の話が非常に興味深かったので、改めて振り返ってみます。

講演のタイトルは、「コロナ禍の中で子どもの生活と発達を保障するー学校の役割を見直す」といいたもの。

増山先生は結構なご高齢で、最近は私の耳に入ってくる年配の方からの教育論は害悪なものばかりだったので、正直あまり期待はしていませんでした笑。

しかし、実際に話を聞いてみると、なるほど歴史を知っているからこそ現代の価値観とミックスしたそんな考え方ができるのかと感心できる内容でした。

そこで感じたことをまとめていきます。

忘れ去られがちな児童憲章

1951年5月5日に宣言された原則です。

法的拘束力はありませんが、国家としての方針などを定めたようなものです。

この児童憲章は学校教育法や教育基本法のできた1947年よりかは後にできましたが、間違いなく日本の教育を考えていく上で根幹となる部分に存在しているものです。

しかし、この児童憲章、昨年が宣言されて70周年だというのに、民間企業も文科省でさえも音沙汰なし。

まるで忘れ去られたかのような幻になりかけてしまっているのです。

これは私たちが本来子どもに与えていきたい、成長をさせてあげたいという根幹の共通認識を放棄しているようなものです。

内容を見れば当たり前だと感じる部分もたくさんあるかもしれませんが、そのあり方は改めて考えなければならないのではないでしょうか。

児童憲章(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/attach/1298450.htm#:~:text=%E4%B8%80%20%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%90%E7%AB%A5%E3%81%AF,%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BE%E3%82%82%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82

  1.  すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。

  2.  すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもつて育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。

  3.  すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。

  4.  すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。

  5.  すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。

  6.  すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整つた教育の施設を用意される。

  7.  すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。

  8.  すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。

  9.  すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。

  10.  すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。

  11.  すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。

  12.  すべての児童は、愛とまことによつて結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。

子どもの権利を考える

では、子どもの権利条約と考えて、子どもが本来持っている権利にはどのようなものがあるのでしょうか。

日本においては1994年に批准されています。

多くの課題もまだまだ残っていますが、これらの権利を子どもたちにしっかりと与えることが学校現場でできているのでしょうか。

確かに指導要領に記載されている専門知識を伝達していくのも大事なのですが、それが全てではありません。

あくまでも指導要領は手段です。

子どもたちに良い成長をしてもらうためにどのようなことを学んで貰えば良いかと大人が考えて作り上げた一つの道であり、手段でしかありません。

それではこれらの権利条約を見て学校現場を想像した時、どうでしょうか?

教育は全てを包括している

増山先生の話では、この中の第31条の休み、遊ぶ権利が全くもって無視されるコロナ禍だったという話がありました。

確かに、子どもは休み、遊ぶことを望むかもしれませんが、遊んでばかりでは好ましい成長はできないかもしれません。

だから、全てをこの権利の主張に反するとするのではなく、少しでもこの意識が我々教員の中にあったかということを問いたいのです。

コロナ禍、学校に来させることができず、まだ教員集団もろくにICTスキルを獲得できていない状況下で、子どもたちになんとか遊ばせようという、その権利を守ってあげようと少しでも意識できたでしょうか。

学校が時差で始まった時、授業をやるだけに必死になっていなかったでしょうか。

この姿はまさに手段にとらわれていたと言っても過言ではありません。

この背景にあるのが、やはり”教育”という言葉の大きさ。

全てを教育と学校での授業も教育、行事も教育、家庭教育も教育。

全てを区別せずに名づけてしまっているからこそ、あやふやに消え去ってしまったものもあったのかもしれません。

増山先生は6つの教育を唱えました。

生存権としての療育
生活権としての養育
学習権としての教育
文化権としての遊育
更生権としての甦育
自治・社会参加権としての治育

これ通りに考えないにしても、私たち教職員集団に抜け落ちている教育の欠片を今一度見直す必要があるのかもしれません。

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