自分自身になりきること vol.404
新任の頃、教員とはこうあるべきだ。
という考えに縛られ、自分の意見を言ったり話したりする時も教員としての正しさを追い求めていました。
それも大事な視点ですが、それだけになってしまうと誰が教員をやっても同じになってしまいます。
その人の中で理想の教員はこれだというものがあった上で、そのなるべきものになるのはいいのですが、幻想の教員、こうでなくてはならないの教員はちょっと肩身が狭くなります。
自分の感情も見えなくなっていってしまうのではないでしょうか。
これも一種のインプロ
先日挙げさせていただいたこの記事にも書きましたが、何かになりきるというのは必要な力です。
対応力や実践力が身につきます。
でも私にとっては、私以外の誰かになりきるというのはちょっとしっくりこない部分もありました。
例えば、自分の中にある人を下ろす。
例えば、論理的に理詰めで話したいと思っている時にはひろゆきなんかを想像して、人と話したりします。
こういうのはなりきりはなりきりなんですが、いいなりきりだと思っています。
その根底にあるのは、ひろゆきを降ろそうと思っている自分がいるわけですから。
怖いのは、その根底にいる自分ですらも排除してしまおうとする考え方。
だから私は、理想の自分になりきるが最高のなりきりなのでは?と感じています。
例えば、、、
学校に落ちているゴミ。
皆さんだったらどうしますか?
こんな時私は2人の側面が頭の中で戦います。
絶対にいいと思う行動は、そのゴミを拾って捨てること。
でも、疲れていたり面倒だったりという感情が強いとそのゴミも見てみぬふりをしてしまいます。
こんな時、理想の自分自身になりきる力が問われるわけです。
自分はどんな人でありたいのか。
そこを考えれば自然と行動が変わってきます。
即興性、インプロとは少し遠いかもしれませんが、これも似たような考え方なのではないでしょうか。
ともすると、インプロとはメタモーメント的要素が含まれているのかもしれません。
信号待ちでもよくある話
大通りでなく、4、5歩で渡り切れてしまいそうな信号。
車もなかなかやってこない。
そんな信号で赤で止められたら皆さんは素直に待ちますか?
私は小さい頃にこのコナンの漫画を読んで、なるほどな〜と子供ながらに納得した記憶があります。
海外では車も来ない赤信号で止まっているなんて理解ができないようですが、日本人の美意識的観念。
そして、世間体もあるかもしれませんが、理想の自分正しくあろうとする自分の精神が表れているのかもしれませんね。
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